年間第14主日・A年(2020.7.5)

「イエスの軛(くびき)を担う」

 

高ぶることなくろばに乗って来る

  今日の第一朗読ですが、第二ゼカリアと呼ばれる預言書の9章からの抜粋であります。その時代背景は、イスラエルが、50年以上にわたる捕囚からようやく解放され、故国に戻り、早速、エルサレムの神殿を再建すべきという意識が高まっていた時代といえましょう。

 それは、同時に来(きた)るべきメシアに希望を託(たく)した時代でもありました。

 ですから、今日の朗読箇所で、その期待されるメシア像を、次のように預言しております。

 「見よ、あなたの王が来る。

 彼は神に従い、勝利を与えられる者

 高ぶることなく、ろばに乗って来る

 雌(め)ろばの子であるろばに乗って。」と。

 シオンを訪れる方(かた)は、「神に従う」方(かた)であり、しかも、神によって「勝利を与えられる者」にほかなりません。

 彼は、また、「高ぶることなく」、ですから、「馬」(聖書では権力の象徴)ではなく、「ろば」に乗って来る方なのです。

 つまり、神に従い、神を敬う気持ちから自分を低くしてろばに乗ります。

 ですから、このメシアの謙虚さは、まさに神に従う心から生じると言えましょう。

 したがって、今日の福音で、イエスは、次のように、わたしたちに呼び掛けておられるのではないでしょうか。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」と。

 また、イエスのエルサレムへの入城の場面は、次のように描かれております。

 「弟子たちは行って、イエスの命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後(あと)に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マタイ21.6-9参照)と。

 従って、このようなメシアの到来によってこそ、

 「わたしはエフライムから戦車を

 エルサレムから軍馬を絶つ。

 戦いの弓は絶たれ

 諸国(しょこく)の民(たみ)に平和が告げられる。」のであります。

 つまり、この地上から武器や軍馬が廃絶(はいぜつ)され、真(まこと)の平和が訪れるという希望に満ちた預言と言えましょう。

 

霊によって体の仕業(しわざ)を絶つ

 次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、まだ一度も訪れたことのないローマの教会に、恐らく57年から58年にかけてコリントに滞在中に書いた手紙の8章からの抜粋であります。

 まず、キリスト者とはキリストの霊に従って行動する、つまり神中心の生き方を貫くので、「肉に従って生きる」つまり、自己中心の生き方から解放されることを次のように強調しております。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、・・・肉ではなく霊の支配下(しはいか)にいます。キリストの霊を持たないものは、キリストに属していません。・・・キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう。・・・肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業(しわざ)を絶つならば、あなたがたは生きます。」と。

 このように、まず、「霊」「肉」を対比(たいひ)していますが、聖書では「肉」という言葉が、「人間的なもの」という意味になります。

 また、「肉」とは、神に自らを委ねて神から力をいただこうとしない、つまり自己中心の生き方を意味しているとも言えましょう。

 ですから、「わたしたちの内に宿っているキリストの霊に従う」生き方こそが、まさに自分自身を神のもとで生かすことができるのであります。

 

イエスの軛(くびき)を負う

 最後に今日の福音を振り返ってみましょう。

 今日の朗読箇所は、福音記者マタイが編集した福音書で、イエスは、十二人の使徒たちを福音宣教に派遣するための説教を終えられ、ご自分もまた、町々で福音を伝えるためにお出かけになったときの場面であります。

 そこで、今日の箇所の前後の文脈から、イエスは、実は、ユダヤ人からは拒絶され、神を賛美することが出来るような状況でなかったと言えましょう。

 ですから、人々の無理解と拒絶の最中(さなか)にあっても、なお賛美をささげることができたのは、彼らの拒絶が、「知恵ある者や賢い者には隠す」という御父の「御心に適うこと」だと悟っていたからではないでしょうか。

 したがって次のような賛美の祈りを捧げます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子(おさなご)のような者にお示しなりました。そうです、父よ、これは御心に適う(かな)ことでした。と。 

 ちなみに、イエスは、別の場面で、次のように語られました。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせ、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。』」(マタイ18.1-4参照)と。

 ここで、また、イエスは優しく呼びかけてくださいます。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と。ここで言われている軛(くびき)」ですが、畑を耕すために二頭の家畜をつなぐ道具ですが、イエスは、そのイメージで「わたしの軛(くびき)」と言われるので、イエスが唯一(ゆいいつ)与えてくださった新しい愛の掟の実践を暗示するお言葉と言えましょう。ですから、最後の晩さんの席上、弟子たちを派遣するに当たって次のように励まして下さいました。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15.16c-17参照)

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

 

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/06/30/000000

 

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