年間第12主日・A年(2020.6.21)

「すべてのキリスト者は福音宣教者である」

 

預言者の苦悩と神への信頼

 早速、今日の第一朗読ですが、紀元前7世紀末から6世紀初めにかけてユダ王国の都(みやこ)エルサレムで、活躍した預言者エレミヤが体験した迫害の苦しみと神への揺るぎない信頼を、次のように叫んでおります。
 「わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。・・・
 しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。・・・
 万軍の主よ
 正義をもって人のはらわたと心を究(きわ)め、見抜かれる方(かた)よ。・・・
 わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」と。
 ちなみに、すべてのキリスト者は、洗礼によってキリストの預言職に与かる者として、今日の世界の只中で、まさに、勇気をもって預言者の使命を、遂行(すいこう)しなければなりません。
 実は、この大切な預言的使命を、教皇フランシスコは、昨年、11月24日広島平和記念公園で、次のように見事に実践(じっせん)なさいました。
 「わたしはつつしんで、声を発しても耳を貸してもらえない人たちの声になりたいです。現代社会が置かれている増大(ぞうだい)した緊張状態、人類の共生(きょうせい)を脅かす受け入れがたい不平等(ふびょうどう)と不正義(ふせいぎ)、わたしたちの共通の家(地球)を保護する能力の著しい欠如(けつじょ)、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように継続的(けいぞくてき)あるいは突発的(とっぱつてき)な武力行使を、不安と苦悩を抱(いだ)いて見つめる人々の声です。
 確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳(そんげん)に反するだけでなく、わたしたちの共通の家(地球)の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理(りんり)に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。」と。

 

イエスの弟子の心構え

 次に、今日の福音ですが、イエスが十二人の弟子を使徒として選び、彼らを宣教に派遣するときの説教を、次のように伝えております。

「人々を恐れてはならない。・・・

わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。・・・

二羽の雀(すずめ)が一(いち)アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。・・・」と。

ちなみに、2012年10月7日から28日まで、シノドス第13回通常総会が、バチカンで開催されました。そのテーマは、「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」でした。その総会で代表司教たちが作成した提言集を基(もと)に、教皇自らが使徒的勧告・福音の喜び』として、2013年11月24日に発布(はっぷ)なさいました。

この使徒的勧告こそ、これからの教会の進むべき最も大切な道標(みちしるべ)と言えましょう。

 まず、初めに教会が宣教的に変革されるべきことを強調しておられます。

 この根本的姿勢転換を出向いていく教会」とならなければと、次のように、勧告しておられます。

 「つまり、自分にとって居心地(いごこち)のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです。・・・

弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは、宣教の喜びです。・・・この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれども、この喜びには、脱出と自己犠牲、すなわち自分自身から出て行くという活動力が伴います。それは、つねに、新たに、より遠くに、種を蒔き続けることです。・・・イエスは、・・・聖霊によって導かれるままに他の民のもとにと出向いて行くのです」(21項参照)

 弟子たちが、それぞれの町や村に派遣されたように、教会は、ミサによって集められた共同体として、その終わりには、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会に福音を告げ知らせるために派遣されるのです。

つまり、教会は月曜から土曜日まで、開店休業するのではなく、まさに出向いて行く教会として、派遣されるそれぞれの場で、福音を伝え続けなければなりません。

ですから、洗礼を受けたすべてのキリスト者は、福音宣教者であることを改めて次のように確認しておられます。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆(か)り立てる聖霊の聖化する力が働いています。・・・聖霊は信者を真理へと導き、救いへと案内してくださいます。・・・

洗礼を受け、神の民のすべての成員(せいいん)は宣教する弟子となりました(マタイ28.19参照)。・・・

福音宣教に参加することをためらわないでください。・・・イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったからには、すべてのキリスト者が宣教者となります。」(119-120項参照)

 さらに福音宣教の確信に触れることを、次のように強調なさいます。

 「福音宣教全体は、神のことばに根差(ねざ)し、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化しなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。・・・

 聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同でのみことばの黙想と分かち合いが求められています。」(174-175項参照)

 教皇フランシスコが、示されているこれからの教会の基本的指針を実践することによって教会は、刷新され、必ず新たな力と勇気が共同体にみなぎってくるのではないでしょうか。

 イエスは、弟子たちを宣教に派遣するに当たって、次のように励ましてくださいました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしがあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。・・・どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。」(ルカ10.2-5参照)と。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/06/16/000000

 

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