キリストの聖体の祭日・A年(2020.6.14)

「私の肉を食べ血を飲む者は永遠の命を得る」

 

祭日の由来

  初めに、今日の祭日の由来を、振り返ってみましょう。

 聖霊降臨によってエルサレムにおいて誕生した教会は、ローマ帝国による迫害にもめげず着実に成長しました。そして、ついにローマ皇帝コンスタンティヌスは、313年「ミラノの勅令」によって、事実上、キリスト教に対する迫害を中止し、その後キリスト教を帝国の宗教にしたため、教会はまさに帝国教会の地位を得たのであります。したがって典礼も国家行事の形式を持つようになりました。

 ところが、中世になってからは、会衆の典礼への参加が、大幅に後退し、関心がもっぱら秘跡に集中し、特にパンがキリストの御体になるという聖変化に注目するようになり、ミサ以外において、ご聖体を礼拝し、また、聖体行列までも行うようになりました。

 そして1209年、べルギーのリエージュのアウグスティヌス修道会修道女ユリアナの聖体にまつわる神秘体験がきっかけとなり、聖体の祭日が制定され、ついに時の教皇ヨハネ二十二世が、それを全教会で守るように定められました。ちなみに、近年、「キリストの聖体と御血の祭日」に変えられています。

 

人は主の口からでることばによって生きる

  では、今日の第一朗読を、振り返って見ましょう。

 今日の朗読箇所は、モーセの最後の説教集とも言える申命記の8章からの抜粋であります。場面設定としては、40年にわたる荒れ野での試練の旅を終え、対岸に約束の地を、望みながらモーセが、イスラエルの会衆に向かって、切々と次のように語ったと言うのであります。

 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたたちに知らせるためであった。」と。

 つまり、旅の試練によって回心したイスラエルは、一体なにを拠り所にして生きるべきかを、体験できたので、希望を見出すことが出来たと言うのであります。

 

共同体の一致の源(みなもと)であるキリストの体と血

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、コリントの教会の分派争(ぶんぱあらそ)いの解決のために書き送った手紙の抜粋であります。

 ですから、使徒パウロは、共同体の一致の要(かなめ)が何であるかを、次のように強調しております。

 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯(さかずき)は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆(みな)が一つパンを分けて食べるからです。」と。

 実際に初代教会においては、大きなホスチアを細かく裂いて、皆(みん)なで分かち合っていました。

 ちなみに、ここで繰り返されている「あずかる」ですが、ギリシャ語では、koinoniaつまり「人間同士の、あるいは神やキリストと人間との密接(みっせつ)で親密(しんみつ)な交わり」を表わします。

 ですから、ミサでの聖体拝領は、交(まじ)わりの儀」と言うようになりました。

 つまり、ミサで、キリストの御体(おんからだ)をいただくことによって、キリストと交わり一致し、また、皆と交わり一致するので、まさに共同体の一致と交わりが実現するのであります。

 ですから、使徒パウロは、同じ手紙で、キリストのパンと杯にあずかることのできるキリスト者は、キリストと一体となり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12.26参照)者となることを強調しております。

 

わたしの肉を食べ、血を飲む者は永遠のいのちを得る

 最後に、今日の福音を振り返ってみましょう。

 今日の朗読箇所は、福音記者ヨハネが編集した福音書の6章からの抜粋であります。

 ヨハネは、パンの奇跡の後(のち)、イエスを慕って集まって来た群衆に向かって、ご自分の体と血について長い講話を、次のように語られる場面であります。

 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得(え)、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」と。

 まず、今日の個所の文脈ですが、ヨハネ福音書6章22節から58節にわたって「天から降(くだ)って来たパン」について群衆に向かって教えられます。

 ちなみに、51節前半までの「パン」は、人が聞いて従うべきみことばの象徴であり、そこでの「パンを食べる」とは、イエスを神のことばとして受け入れ、深く心に留める体験と言えましょう。確かに、51節以前では、「信じる」という言い回しがくりかえされておりますので、まさに永遠の命をもたらすのはイエスのことばであると言えましょう。事実、68節で、ペトロか弟子たちを代表して「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」と、信仰告白をしています。

 しかしながら、今日の個所では、イエスが与えてくださるパンは、イエスの「肉と血」そのものであることが、明確にされていると言えましょう。

 しかも、51節以降では、「食べる」「飲む」「血」「肉」という言葉が繰り返され、まさに、イエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが、永遠の命に与(あず)かることであることが明らかにされています。

 ですから、続いて次のように強調されます。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣(つか)わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは、天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と。

 したがって、ミサにおいて「キリストの御体(おんからだ)と御血(おんち)によって養われ、聖霊に満たされて一つになれる」(第三奉献文参照)からこそ、ミサの終わりに宣教のために派遣されます。ですから、近年、教皇フランシスコは、次のように勧告しておられます。「つまり、自分にとって居心地(いごこち)の良い場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20項参照)と。

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を告げ知らせることが出来ように共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/06/08/000000

 

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