三位一体の主日・A年(2020.6.7)

「父と子と聖霊である唯一の神を賛美する」

 

三位一体(さんみいったい)の唯一の神を信じる

 教会は、初期の時代から、今日に至るまで一貫して、三位一体である唯一の神」に対する揺るぎない信仰告白を実践しております。

 たとえば、入信の秘跡である洗礼式において、洗礼志願者に対して、司式司祭は、まず、次のように確認します。

 「あなたは天地の創造主、全能の、神である父を信じますか。」と。

 そこで、志願者は、「信じます。」と、答えます。

 次に、御子(おんこ)について「父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活し、父の右におられる主イエス・キリストを信じますか。」と。

 志願者は、「信じます。」と、答えます。

 最後に、聖霊に対する信仰を確認します。

 「聖霊を信じ、・・・永遠のいのちを信じますか。」と。

 そこで、志願者は、同じように「信じます。」と、答えます。

 続いて、三位一体の神の名をすべて唱えながら、司式者は、志願者の頭に三度(さんど)水を注ぎます。

 司式者「・・・・、わたしは、

 父と、・・・子と、・・・聖霊のみ名(な)によって、あなたに洗礼を授けます。」と。

(『カトリック儀式書 成人のキリスト教入信式』104-105頁参照)

 ちなみに、初代教会の神学者(教父)たちも、三位一体の唯一の神について、神学を究めましたが、その代表者として西暦400年から416年にかけて書かれた聖アウグスティヌスの三位一体の唯一の神についての、さわりの個所を紹介しましょう。

 「わたくしたちは、父と子と聖霊の唯一の神であり、全被造物の創造者であり、かつ支配者であられること、父は子ではなく、聖霊は父でも子でもなく、父と子と聖霊は相互に関係する三位一体であり、等しい統一的存在であることを信じます。」と。

 ところで、三位一体」という用語は、聖書やミサ中に宣言する使徒信条」では、使われておりません。つまり、この用語は、教会がつくり出した神学用語にほかなりません。

 

 

典礼は三位一体の御業(みわざ)

  

・典礼の源泉であり目的である御父

 次に、典礼における三位一体の唯一の神の働きについて確認してみましょう。

 最初に、御父(おんちち)こそ、典礼活動の源泉であり目的であると言えましょう。

 たとえば、ミサの開祭の儀で、使徒パウロの言葉に従って(コリント二、13.13参照)、司式司祭は、次のように会衆に向かって挨拶します。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に。」と。

 次に、集会祈願(きがん)を、次のような文言(もんごん)でしめくくります。

 「・・・聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々(よよ)に生き、支配しておられる御子(おんこ)、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」と。

 すなわち、典礼における祈りの基本的仕組みは、聖霊の交わり中におられる御子(おんこ)によって、御父(おんちち)に向かって祈ることにほかなりません。

 なぜなら、御父こそが、典礼の「源泉」であり、「目的」なのであります。

 ですから、パウロは、賛美の本来の基本的内容を、次のように説明してくれます。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。・・・神がその愛する御子(おんこ)によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェソ1.3-6参照)と。

 ちなみに、典礼でたびたび使われる「祝福」という言葉ですが、聖書では、創世記」の天地万物の創造の四日目において、初めて、次のように荘厳に語られております。

 「神は言われた。『生き物が水の中に群がれ。鳥は地(ち)の上、天の大空の面(おもて)を飛べ。』神は、群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼のある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良(よ)しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。』」(1.20-22参照)と。

 つまり、「祝福」とは、神から与えられる生命力と言えましょう。

 ですから、人間が神を祝福するときには、「賛美」となり、感謝を込めて天地万物の創造主なる御父(おんちち)を、礼拝し、信じることができるのであります。

 このように、典礼において、神の「祝福」が、全面的に明らかになり、伝えられるのであります。ちなみに『カトリック教会のカテキズム』(1082番参照)には次のような説明があります。

 「すなわち、御父は、創造と救いのすべての祝福の泉であり目的として認められ、礼拝されます。わたしたちのために人となり、死んで復活させられたみことばにおいて、御父(おんちち)はわたしたちを祝福で満たし、みことばによって、わたしたちの心にすべての賜物(たまもの)の最高のもの、聖霊を注がれます。」と。

 

・典礼は、大祭司キリストの御業(みわざ)

 さらに、典礼は、キリストによる過越(すぎこし)の神秘」を中心に、一年を通じて展開されます。しかも、典礼においてこそ、この過越(すぎこし)の神秘」を、祝う度(たび)ごとに、そのときの出来事として、つまり過去の出来事が現在化(げんざいか)」するのであります。

 

・聖霊が、キリストの神秘を典礼において現在化する

 また、典礼活動において、キリストの救いの出来事が祝われる度毎(たびごと)に、聖霊が注がれ、実現するので現在化(げんざいか)と言えるのであります。しかも、聖霊こそが、わたしたちうちに真(まこと)の一致をもたらすことを、ミサの第三奉献文で次のように祈ります。

 御子(おんこ)キリストの御(おん)からだと御血(おんち)によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように。」と。

 このように、わたくしたちは、特に典礼において、父と子と聖霊の唯一の神の働きを豊かに体験できることを、改めて感謝できるのではないでしょうか。

 今週もまた、御子(おんこ)に聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において父なる神を、あかし出来るように共に祈りましょう。

 

 

  ※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/05/19/000000

 

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