聖霊降臨の主日・A年(2020.5.31)

「神の偉大な業(わざ)を語る」

 

聖霊が語らせるままに話し出した

  今日の第一朗読は、使徒言行録の2章からの抜粋でありますが、その編集者である福音記者ルカは、エルサレムにおける教会の誕生の出来事を、いともドラマチックに、次のように伝えてくれます。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座(すわ)っていた家中(いえじゅう)に響(ひび)いた。そして、炎(ほのお)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人(ひとりひとり)の上にとどまった。

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々(くにぐに)の言葉で話し出した。」と。

 実は、ルカは、その福音書で、天に上げられる前に、イエスが弟子たちに、次のような約束をなさったことを、伝えております。

 「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24.49参照)と。

 ここで、ルカは、「五旬祭の日が来て、」と、つまり、過越祭から丁度五十日目に当たる《小麦の収穫の初穂》(出エジプト34.22参照)を神にささげるユダヤ教の三大祭りの当日であったと念を押しています。

 次に、「一同が一つになって」と、理想的教会生活を描くルカ独特の用語が使われております。

 続いて、《風》《炎(ほのお)》《現れ》と、いずれも旧約では具体的に神が現れることを示す言葉にほかなりません。

 しかも、《霊》は、《風》のように音を立てて、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と言うのであります。

 このように、ルカは、音とイメージによってエルサレムの聖母マリアを中心に集まっていた使徒団に聖霊が注がれ教会が誕生したことを描いております。

 しかも、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した。」と、早速、聖霊の賜物をいただいて弟子たちが、突然、あらゆる国の言葉で、神の国の福音を語り始めたというのであります。

 これこそ、教会が、神の国の完成を目指して、「地の果てに至るまで」(使徒1.8参照)派遣され、それぞれの国の言葉で、福音を宣べ伝える使命を生きる宣教共同体であることを象徴する出来事と言えましょう。

 ですから、そこに集まっていた人々は、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と、感動したと言うのであります。

 

皆(みな)一つの体(からだ)となるために洗礼を受け

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがコリントの教会へ送った手紙の抜粋であります。

 実は、このコリントの教会は、パウロの第二宣教旅行(49-53年)においてパウロ自(みずか)らが創立しました。そして、この手紙は、第三宣教旅行(53-57年)でエフェソから書き送った手紙と考えられます。

 実(じつ)は、パウロ自(みずか)らが創立したにも関わらず、パウロが去った後(のち)ですが、なんと分派争(ぶんぱあらそ)いが起こったと言うのであります。

 そこで、パウロは、自分がコリント教会を訪問できないので、せめて手紙によってその深刻な問題の解決に向けて指導したのではないでしょうか。

 ですから、共同体における多様性の一致を、次のように強調しております。

「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

 体(からだ)は一つでも、多くの部分から成(な)り、体(からだ)のすべての部分の数(かず)は多くても、体(からだ)は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆(みな)一つの体となるために洗礼を受け、皆(みな)一つの霊をのませてもらったのです。」と。

 ちなみに、パウロは、エフェソの教会にも、皆が一致して共同体を育てることが出来ることを、次のように書き送っております。

 「こうして、聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、キリストの体を造りあげてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長して行きます。」(エフェソ4.12参照)と。

 

あなたがたを遣わす

 最後に今日の福音を振り返ってみましょう。

 福音記者ヨハネは、イエスが復活させられた当日の夕方、あらゆる戸に鍵をかけ密かに隠れていた弟子たちの只中(ただなか)に突然現れた復活のイエスを、次のように描いております。

 「そこへ、イエスが来て真ん中(まんなか)に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹(ばら)とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは、重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」と。ここで言われている「あなたがたに平和があるように」ですか、平和の願いというよりは、イエスが、罪と死に打ち勝って復活させられることによって、まさに真の平和が実現したことの宣言と言えましょう。

 そして、早速、弟子たちを派遣なさいます。ちなみに、福音記者マタイは、イエスが、十二使徒を派遣する場面を、次のように報告しております。「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家(いえ)の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」(マタイ10.11-13と。さらに、福音記者ヨハネは、弟子たちを派遣するために、イエスが早速、彼らに聖霊を吹きかけたことを、次のように強調しております。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ。赦されないまま残る。』」と。

 つまり、聖霊によって弟子たちに与えられた使命は、「罪の赦し」の権能にほかなりません。すなわち、イエスの死と復活によってすでに実現した罪の赦しを、弟子たちが宣言することによって、聖霊が人々にも注がれていき、すべての人々が罪を赦すことが出来る人間に変えられて行くという神の救いの御業の中心に、復活のイエスがおられるのであります。

 聖霊降臨の主日にあたり、わたしたちも、あらためて「聖霊に満たされて」(ルカ1.41b参照)派遣されるそれぞれの場で、福音を伝えることができるように共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/05/19/000000

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