主の昇天 A年(2020.5.24)

「地の果てに至るまでわたしの証人となる」

 

聖霊が降(くだ)ると力を受ける

 早速、今日の第一朗読ですが、福音記者ルカが、その福音書の続編つまり第二巻として編集した使徒言行録の冒頭の箇所の抜粋であります。

 ですから、復活させられたイエスが、弟子たちに現れて宣言なさったことを、次のように伝えております。

 「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。

 確かに、イエスご自身は、ガリラヤでの最初の宣教に先立って、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、次のように聖霊を注がれました。

 「さて、民がこぞって洗礼を受けていたころ、イエスも洗礼をお受けになった。そして祈っておられると、天が開かれ、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り(くだ)、天から声がした、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』。」と(ルカ3.21-22参照)。

 実は、わたしたちも洗礼式で、額(ひたい)に聖香油を塗られた時、司祭は次のように祈りました。

 「神の民に加えられた あなたは、神ご自身から救いの香油(こうゆ)を注がれて 大祭司、預言者、王であるキリストに結ばれ、その使命に生きる者となります。」(『成人のキリスト教入信式』105頁参照)。

 従って、わたしたちも弟子たちと同じように聖霊を注がれたので、「地の果てに至るまで、イエスの証人となる」つまり、福音を宣(つ)げ知らせるために派遣されているのです。

 ですから、イエスが、天に上げられるお姿に見とれていた弟子たちに対して、天使たちが、次のように宣言したのではないでしょうか。

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ(おな)有様で、またおいでになる。」と。

 つまり、天を見上(みあ)げて立ち止まるのではなく、今や与えられた使命の遂行に取り組むべきなのです。なぜなら、「イエスの時代」から「教会の時代」へと時代が大きく変わったからにほかなりません。

 

教会はキリストの体(からだ)

  次に、今日の第二朗読ですが、恐らく使徒パウロの弟子が、一世紀末にエフェソの教会に宛てて書いた手紙の最初の個所の挨拶と祈り、そしてキリストの体である教会についての次のような抜粋であります。

 「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせ、キリストを死者の中から復活させ、・・・神はまた、すべてのものをキリストの足のもとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。教会はキリストの体(からだ)であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と。

 つまり、わたしたちの教会は、キリストの力がみなぎっている共同体に成長できると言うのであります。

 したがって、使徒パウロは、この同じ手紙の中で、わたしたちの共同体がどのように成長し続けることができるのか、具体的に次のように励ましてくれます。

 「こうして聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、キリストの体(からだ)を造(つく)り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟(せいじゅく)した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより体(からだ)全体は、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合されて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自(みずか)ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4.12-16参照)と。

 

世の終わりまで共におられる。

  最後に、今日の福音を振り返って見ましょう。

 今日の朗読箇所は、マタイによる福音書の最後の締めくくりの個所であります。まず、今日の場面で、弟子たちは、「イエスが指示しておかれた山に登った。」と言うのであります。ちなみに、聖書に登場する山は、神との出会いの場を意味しております。ですから、モーセが、初めて主なる神に出会ったのは、シナイ山でした。そして、イエスが群衆に説教なさったのも山の上(うえ)でした(出エジプト3.1-10;マタイ5.1参照)。

 そこで、イエスは、厳かに次のように宣言なさいます。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と。

 ここで、命じられている「弟子にしなさい。」ですが、「弟子」とは、具体的にはイエスの語りかけに絶えず聞き従い、それに生かされる人のことと言えましょう。また、「いつもあなた方と共にいる。」と念を押されておりますが、実は、イザヤのメシア預言によれば「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる」(マタイ1.23参照)のイエスにおける実現と言えましょう。

 このように、教会の存在理由は、地の果てまで出かけて行って、すべての民に福音を宣(の)べ伝えることにほかなりません。ですから、特に近年、教皇フランシスコは、その使徒勧告『福音の喜び』で、出向いて行く教会になるように切々(せつせつ)と訴えておられます。

 「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。・・・神はエレミヤに命じられます。『わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、行け』(エレミヤ1.7参照)。 今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教のつねに新たにされるシナリオとチャレンジを示しています。

 皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めておられる道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけに応える(こた)よう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地(いごこち)の良い場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれています。」(20項参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を告げ知らせることが出来るよう共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/05/19/000000

 

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