復活節第6主日・A年(2020.5.17)

「あなたがたを、孤児(みなしご)にはしておかない」

 

愛しているなら掟を守る

 今日の福音は、先週に引き続き、ヨハネ福音書の14章の告別説教の第一部の続きの箇所、15節から21節までの抜粋であります。

 そこで、すでに、先週確認したように、福音記者ヨハネは、ヨハネ教会が直面しているユダヤ教との対決という緊張状態の最中(さなか)に、この福音書を編集したと考えられます。

 しかも、イエスの遠い未来の再臨を、現在化し、イエスご自身の共同体の只中における現存を体験しながら語るという手法であります。ですから、すでに「わたしの父の家には住む所がたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14.2-3参照)と、優しく弟子たちを励ましてくださったのであります。

 さらに、今日の個所の冒頭で、次のように説教を続けられます。

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と、念を押されます。

 つまり、イエスを信じることができるのは、まずイエスを愛しているからこそ、掟を守ることが原動力になっているからではないでしょうか。

 ですから、最後の晩餐の席上、初めて弟子たちに愛の掟を次のように命じられました。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(同上13.34-35参照)と、まさにイエスが、先にわたしたちを愛しておられるので、わたしたちも互いに愛し合うことができるのであります。

 次に、続けて約束なさいます。

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」と。

 つまり、わたしたちが、互いに愛し合うという新しい愛の掟を実践するならば、別の弁護者つまり真理の霊が注がれるというのであります。

 別の弁護者とおっしゃるのは、すでに、イエスご自身が、わたしたちの弁護者にほかならないからであります(ヨハネ一、2.1参照)。

 ですから、弁護者とは、真理の霊すなわちわたしたちを守り、真理を教え導く聖霊のことであります。しかも、聖霊体験によって、わたしたちは不信仰のこの世から切り離された特別な存在に変えられるのであります。

 したがって、ヨハネは、その手紙の中で、次のような厳しい勧告を与えてくれます。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心(みこころ)を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ一、2.15-17参照)と。

 さらに、イエスは優しく宣言なさいます。

 「わたしは、あなたがたを孤児(みなしご)にはしておかない。あなたがたのところに、戻(もど)って来る。・・・わたしが生きているので、あなた方も生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることを、あなたがたは悟(さと)るであろう。」と。

 ちなみに、この福音書が、編集された時代背景ですが、そのときのヨハネ共同体は、確かに社会的・宗教的にみれば、まさに、《みなしご》のような状態にあったのではないでしょうか。つまり、「イエスが主である」と告白することは、ユダヤ社会からの村八分を意味していたからにほかなりません。

 ですから、聖霊が注がれることによって、まさに再臨のイエスが、共同体の只中に現存しておられるので、決して《みなしご》ではないと実感できたのではないでしょうか。

 つまり、ここで言われている「かの日」とは、未来の終末(parousia)のことではなく、まさに父と子が一体となって、すでに共同体の只中(ただなか)におられるので、わたしたちは決して《みなしご》にはならないのであります。

 しかも、それは「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。」からにほかなりません。

 

彼らは聖霊を受けた

 ここで、第一朗読の説明に戻ります。

 ちなみに、復活節のミサにおいて、聖霊を注がれて誕生した初期の教会の宣教活動を報告している使徒言行録が朗読されますが、今日の朗読箇所は、サマリア地方へ福音が宣(の)べ伝えられたことを報告する8章4節から25節までの中からの抜粋であります。

 まず、使徒のフィリッポが初めた福音宣教を使徒たちのリーダーであるペトロと使徒ヨハネがそれを完成させているのであります。

 とにかく、福音記者ルカによれば、確かにイエスが復活させられたのも、弟子たちの目の前で天に上げられたのも、すべてエルサレムにおいてでした(ルカ24.33-34, 50-51参照)

 ですから、地の果てに至るまでの宣教活動は、エルサレムから始めるべき(使徒1.8参照)なので、エルサレムの教会から派遣された使徒ペトロと、使徒ヨハネこそが、フィリポの働きを受け継ぎ、人々に聖霊を授けたと言うのであります。そこで、次のように報告されております。

 「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下(くだ)って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」と。

 ここで確認すべきことですが、宣教活動の原点は聖書にほかなりません。

 ですから、近年、教皇フランシスコは、次のように強調なさっておられます。「福音宣教全体は、神のことばに根差し、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自ら(みずか)を福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが、絶対に必要です。・・・聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同でみことばを黙想することが求められております。」(『福音の喜び』174-175項参照)と。

 今週もまた派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を伝えて行くことができるように共に祈りましょう。

 

 

関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2014/05/24/000000

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

 あなたがたを孤児にはしておかない「復活節第6主日・A年」(20.5.17).docx - Google ドライブ