復活節第5主日・A年(2020.5.10)

「わたしは道・真理・いのちである」

 

王的祭司である神の民

  まず、初めに、今日の第二朗読を、少し丁寧に振り返ってみましょう。

  この朗読箇所は、使徒ペトロの手紙一2章4節から9節までの抜粋であります。この手紙は、当時のオリエント世界において軍事・経済大国であったローマ帝国のキリスト教徒に対する迫害が激しくなった90年代に書かれたと考えられます。ですから、この手紙の読者たちは、まさに迫害が迫っているという緊張状態の最中(さなか)、特に異教徒から改宗した異邦人キリスト者たちは、自分たちが住んでいる異邦人社会の行事に参加しないと言う理由で、迫害を受けていたのであります。

 ですから、(初代ローマ教皇である)使徒ぺトロは、迫害を耐え忍びながら、自分たちもイエスの苦しみに参加し聖なる<いけにえ>として自分自身を主と共に御父にささげることにしか救いの道がないことを、次のように力説しております。

 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な<いけにえ>を、イエス・キリストを通して献(ささ)げなさい。・・・あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と。

 

共同体における役割分担

 次に、今日の第一朗読ですが、福音記者ルカが、その福音書の第二部として編集した初代教会の活動を報告している使徒言行録の6章1節から7節までの抜粋であります。教会は、確かに聖霊に満たされて「皆一つになって」(使徒2.44参照)歩み始めたのですが、信者の数が増えるにつれて具体的な問題をも抱えることになったと言うのであります。つまり、「ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情で出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたから」にほかなりません。

 恐らく、初代教会に生じたもっと深い原因があったのではないでしょうか。それは、それぞれの信仰の捉え方が「ギリシャ語を話すユダヤ人」つまり、パレスチナ地方以外で生まれ育った信者たちと、割礼に象徴される律法の枠内でキリスト信仰を捉えているエルサレム育ちの信者たちとの間に分裂が生じたのではないでしょうか。

 そこで、使徒たちは、「貧しい人々への分配」と、信者の信仰教育のための祈りとみことばの「奉仕」に携わる者との役割分担が必要になったと言うのであります。

 ですから、キリストの体である教会は、全員が一人一役と、自分の出来る奉仕に専念することによってこそ、霊的活力にみなぎる共同体として成長し続けることができるのではないでしょうか。

 

わたしは道・真理・いのちである

  次に、今日の福音の朗読箇所は、福音記者ヨハネが編集した福音書の14章1節から12節までの抜粋であります。

 この福音書は、第一部:徴(しるし)の書(1.19-12.50)と第二部:栄光の書(13.1-20.31)に分けることができます。

 ですから、今日の個所は、第二部の最後の晩餐の場面で語られる告別説教の(一)の最初の箇所であります。

 そこで、イエスとの決別を目前(もくぜん)にして動揺し、さらにユダだけでなく、ペトロの裏切りまで予告された弟子たちに、イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と優しく語り掛けます。

 ここで言われている「信じなさい」ですが、まさに心の不安を克服することが出来る唯一の道として、信仰こそが必要であると訴えておられるのではないでしょうか。

 そして、2節と3節で、いきなり「わたしの父の家には住む所がたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と、テーマを主の再臨(parousia)に切り替えられるのであります。

 つまり、ここで、イエスは、遠い未来の或る時点における終末(救いの完成)という視点が中心ではなく、まさに現在における上なる領域と下なる領域という垂直に空間化していると言えましょう。

 したがって、ここで約束している再臨は、聖霊の到来のイエスの現存にほかなりません。このように、ヨハネ福音書においては、聖霊の時は、十字架と復活の時に同時化されているのであります。ですから、再臨の時も、まさに栄光の時として同時に実現されると言うのであります。

次に、唐突にも、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と断言なさいます。

 そこで、トマスが弟子たちを代表して、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と、即座に尋ねます。

 そこで、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既(すで)に父を見ている。」と、神だけがお出来になる「わたしは、何々である。」という自己宣言をもって答えられます。

  しかも、イエスは、神に所属し神のみが与えることができる真理といのちそのものであるからこそ、イエスが父である神に至る唯一の道なのであります。このように、父とイエスの一体性が強調されております。ですから、この福音書冒頭のロゴス賛歌の中で、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(ヨハネ1.18参照)ということばと同じ線上にあると言えましょう。したがって、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と断言なさるのであります。ちなみに、この福音書が編集された時代背景ですが、ヨハネの教会が、ユダヤ教との対決の最中(さなか)、父と子の一体性、神とキリストの一体性こそが、その宣教の中心課題だったのではないでしょうか。ですから、続けてイエスは、強調なさいます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。・・・アーメン、アーメン、わたしは言う。わたしを信じる者は、わたしの業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と。

つまり、イエスが復活させられた当日にすでに聖霊を注がれた弟子たちを全世界に派遣なさったので(同上20.21-23参照)、確かに「もっと大きな業を行う」ことが出来るのではないでしょうか。

今週もまた聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を伝えて行くことがでるように共に祈りましょう。

 

 

 ※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/05/05/000000

 

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