復活節第4主日・A年(2020.5.3)

「わたしが来たのは羊が命を受けるためしかも豊かに」

 

「羊の囲い」のたとえ

  早速、今日の福音を、少し丁寧に振り返ってみましょう。

 まず、福音記者ヨハネは、10章の1節から6節において、パレスティナ地方の羊飼いたちの牧畜生活を背景に「羊の囲い」のたとえを語っています。

 しかも、重要なことを言う場合の定型句、原文のギリシャ語では、「アーメン、アーメン、わたしは、あなたに言う。」で始めております。

 その背景を少し説明します、羊飼いたちは、自分たちに任されている主人の羊たちを、朝、その戸外にある囲いから連れ出し(山羊と違って新鮮な空気を必要とするので)、緑の牧草を食べさせ、運動させ、また清い水のせせらぎに導き、渇きをいやし、夕方になれば、主人の囲いの中に安全に連れ帰るのが日課であります。

 これが、羊飼いの一日の働きであり責任にほかなりません。ですから、正規に主人から委託された羊飼いは、門から堂々と入ることができるのであります。しかも、一匹、一匹をそれぞれの名前で呼んで連れ出して、先頭に立って引き連れて行くのです。それができるのは、羊たちも、羊飼いの声を知っているからにほかなりません。

 ですから、主人から頼まれていないつまり正規でない羊飼いは門からではなく、他のところから入るしかないのであります。

 このイメージから、イエスとその敵対者との関係が暗示されていると言えましょう。つまり、敵対者は盗人、強盗のたぐいで非難されているのです。

 ここで、言われている「声」ですが、「音」とも訳せるのですが、預言者イザヤの言葉の、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」(ヨハネ1.23参照)にちなんで、神との関係で神からの働き掛け、具体的にはイエスご自身と関係づけられていると言えましょう。

 ですから、14節で「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と強調しているのであります。

 

イエスは良い羊飼い

   次に、7節から、イエスはまた、別のたとえを、語られます「アーメン、アーメン、わたしは言う。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と。

 まず、ここで、ご自分を、いきなり「羊の門である。」と、宣言なさるのは、確かに、唐突ですが、11節で「わたしは良い牧者である。」と、強調なさいますので、イエスこそ、むしろ門を通って帰る良い羊飼いだと宣言なさりたかったのではないでしょうか。とにかく、ここでは、イエスこそが、神の国、つまり神の王的支配の領域に、人々が入る場合の唯一の入り口なので、羊の囲いの門という言葉を用いられたと言えましょう。それは、14章の「わたしは道である。」(6節)という宣言と結びつけることが出来ます。

 すなわち、イエスによらなければ誰も父のもとに行くことができないという主張に関連しているのであります。

 さらに、11節では「わたしは良い羊飼いである。」と、強調なさるのは、エゼキエル書34章11節の「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」を、背景にしていると言えましょう。そして、23節の「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを養わせる。それは、わが僕(しもべ)ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」というメシア預言へ関連させることができます。

 しかも、このような良い羊飼い・メシアが現れた「そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる 」(同上30節参照)と言うのであります。

 

主は羊飼い

    次に、先ほど歌った答唱詩編の解説に移ります。

 今日の詩編は、23編からの抜粋ですが、それぞれの節の説明をして見ましょう。

 まず、冒頭の1節ですが、「主は羊飼い、わたしは何も欠けることはない。」と、羊が自分を導いてくれる羊飼いに対する全面的な信頼の心を歌っております。

 ですから、ここで、羊飼いの務めである「導く」、「守る」、そして「養う」を、わたしたち自身のそれぞれの人生の旅路において、どのように主に導かれ、守られ、養われてきたのかを、振り返ることができるのではないでしょうか。ちなみに、第二イザヤは、「主は羊飼いとして群れを養い、御腕(みうで)をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ40.11参照)と、イスラエルの捕囚民に対する神のいつくしみに信頼をよせております。

 実は、今日の第二朗読ですが、使徒ペトロは、その手紙において次のようにしたためております。

 「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方(かた)のところへ戻って、来たのです。」と。

 また、福音記者ヨハネは、福音書の冒頭で、人間となられたみことばが与えて下さる恵の豊かさを次のように強調しております。

 「みことばは人間となり、われわれの間に住むようになった。われわれはこの方の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光である。

 われわれは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1.14,16参照)

 次に2節のa「主はわたしを青草の原に休ませ」と、主が、豊かな牧場で養しなってくださることを、信頼を込めて歌い始めます。「青草」は、芽を出したばかりの若草を指しています。また、「原」は、野原です。荒れ野でも、パレスティナでは雨が一度(ひとたび)降ると、若草が萌え出で牧場となるのです。

 2節b、3節a「憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせでくださる。」は、バビロンの捕囚から祖国に帰還するイスラエルの民も、かつてエジプトの奴隷の家から脱出したときのように、砂漠の中で岩から湧き出る豊かな水によって魂の渇きを癒されたことを思い起こしています(イザヤ48.21参照)。「魂を生き返らせてくださる。」は、つまり、主によって憩の水のほとりに伴われ、生き返ること、まさにいのちのよみがえり、復活体験を暗示していると言えましょう。4節ab「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と、今や、詩人を取り巻く状況は急変します。「青草の原」「死の陰」に覆われた谷間となり、羊は「水のほとりに憩う」どころか、まさに一歩一歩足場をさぐりながら死の谷間を進まねばなりません。けれども、そのような極限状態にあっても、主に対する信頼は全く揺らぎません。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる。」からです。ですから、主なる神が、名前を聞いたモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト3.14参照)と、お答えになったように、神こそは、「どんな時も、どんな所でも、最もふさわしいあり方で、共にいてくださる方(かた)」なのであります。

 しかも、4節c「あなたの鞭(むち)、あなたの杖 それがわたしを力づける。」のであります。

 ちなみに、ここで言われている「鞭」ですが、羊飼いたちが腰帯に挟(はさ)んで持ち歩く、長さ1メートルぐらいの棍棒(こんぼう)を指しています。羊飼いは、それを使って、羊を襲う野獣を追い払います。また、「杖」は、歩くときに使う長い杖のことです。

 とにかく、神がわたしたちをあらゆる外敵からまもり、また、歩みを支えてくださると言う信頼の叫びにほかなりません。

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において良い羊飼いイエスをあかしできるように共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/04/28/000000

 

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