復活節第2主日・A年(23.4.16)

「弟子たちは主を見て喜んだ」

 

その日 週の日の初めの日の夕方(ヨハネ20:19参照)

   ヨハネ福音書の文脈では、この20章の冒頭で、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(同上20.1)」から、主の愛しておられたもう一人の弟子と、マグダラのマリアと他の弟子たちの復活体験の感動的報告を始めています。

 ですから、今日の福音の冒頭すなわち「その日、すなわち週の初めの日の夕方(同上20:19)」は、明らかに20章1節のことば 、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」と対(つい)をなすような言葉遣いであることは明らかであります。

 つまり、この福音記者は、これらの出来事を、まさに関連する同じ出来事として一つにまとめているのではないでしょうか。

 そこでまず、弟子たちの様子を、次のように極めてリアルに描いています。

「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵(かぎ)をかけていた。」と。

 自分たちも、イエスの弟子ということで、もし、兵隊たちに見つかれば、イエスと同じように捕えられ、裁判にかけられ鞭(むち)打たれるのではないかと、恐れていたのでしょう。

 ですから、自分たちの隠れ家(かくれが)のすべての戸口には、しっかりと鍵をかけて、声をひそめ隠れていたと言うのです。

 

あなたがたに平和があるように(ヨハネ20:19b参照)

 ところが、なんと鍵のかかっている戸口を、通り抜け、いきなり「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように。』」と、宣言なさったのです。

「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。」ので、「弟子たちは、主を喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」と、宣言なさったと言うのです。

 確かに、当時(とうじ)のユダヤ社会においては、日常の挨拶(あいさつ)としてヘブライ語で「salom」と言い交わしていたと言うことですが、まさに「神が共におられる時」のことであり、その時が平和であると考えていたようです。

 しかしながら、この場面は、まさにイエスが復活させられたことによって死と罪に打ち勝って獲得なさった平和宣言ではないでしょうか。

 しかも、イエスのこの平和宣言は、まさに、イエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている罪人である弟子たちに、「なお神が共にいてくださるよ」と宣言しておられるのです。

 つまり、この宣言をイエスから受けたとき、弟子たちは自分たちのような者が、罪人をも赦す神の愛によって赦されたことを受け入れ、信じたのであります。

 すなわち、罪人である弟子たちが罰せられることなく、なぜ赦されたのかが分かって、赦してくださるイエスを信じることができたのです。

 それは、ほかならぬイエスが彼らの罪の贖(あがな)いとなって十字架で死んでくださったからだということも、同時に示され、弟子たちを受け入れたからにほかなりません。

 

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:21c-23参照)と。

 

 ちなみに、この御父の御子の派遣は、教会の宣教活動の原点にほかなりません。

 ですから、第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令』において「旅する教会は、その本性上、宣教者である。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源があるからである(2項)。」と宣言しています。

 しかも、ヨハネは、この派遣に必要な聖霊を、そこでただちに注がれたと強調しています。

 ちなみに、ルカは、次のように聖霊降臨を報告しています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中(いえじゅう)に響いた。そして、炎(ほのお)のような舌(した)が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留(とど)まった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(使徒2:1-4参照)。」

 とにかく、ヨハネは、弟子たちを、主の復活の当日に派遣なさるので、当然聖霊をその前に注ぐ必要があったということでしょう。

 しかも、聖霊による弟子たちの派遣の中心的使命は、罪の赦しの権限を与えたことにほかなりません。

「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と。

 つまり、聖霊によって執行(しっこう)される権威の内容が、罪の赦しと言う形ではっきりと言葉になっているのです。

 しかも、この罪を赦すことが出来る権能(けんのう)は、個人にではなく弟子たち、つまり教会にこの権威が委ねられているのです。具体的には司祭職の大切な権能に委ねられているのであります。それが、赦しの秘跡にほかなりません。

 

見ないのに信じる人は、幸いである(ヨハネ20:29c参照)

  今日の福音の締めくくりとして、ヨハネは、トマスの復活信仰体験を、次のようにまとめています。

「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』といわれた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」と。

 ちなみに、ペトロは、その手紙の中で次のように強調しています。

「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです(一ペトロ1:8-9)。」と。

 このミサによって派遣されるわたしたちも、主の復活の喜びを、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において分かち合うことが出来るように共に祈りましょう。

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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