復活節第3主日・A年(23.4.23)

「二人の目が開けイエスだと分かった」

 

(1)二人の目は遮(さえぎ)られていてイエスだとは分からなかった(ルカ24:16参照)

  今日の福音は、ルカだけが伝えている復活のイエスが、エマオに向かって恐らく逃亡中のクレオパと、もう一人の弟子に現れてくださったといういとも感動的なエピソードを物語っています。

 まず、「週の初めの日」と、日時(にちじ)を確認しています。これは、勿論(もちろん)、ユダヤの暦(こよみ)の七日(なのか)を単位とする時間の区分で、七日目(なのかめ)の安息日によって終わる暦(こよみ)にほかなりません。

 ですから、「この日、すなわち週の初めの日」というのは、私達の暦(こよみ)では日曜日に当たります。

 次に、「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」と目的地を確定しています。ここで言われている「六十スタディオン」とは、約11キロメートルの距離に相当します。

 続いて、「この一切の出来事について話し合っていた。」と、二人が道すがら何をしていたかを確認しています。

  ここで言われている「一切の出来事」とは、言うまでもなくイエスのエルサレムにおける受難と十字架上のご死去とその御遺体の墓への埋葬までのすべてを含む出来事にほかなりません。

 続いて「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩きはじめられた。」と、早速イエスが登場なさいます。

 ところが、「二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。」と、この二人の弟子の心の状態をあからさまに説明します。つまり、復活のイエスご自身が、彼らのいわば心の目を開いてくださらない限り、彼らはイエスを復活の主(しゅ)として悟ることが出来ないと言うのです。これは、まさに31節の「心の目が開け、イエスだと分かった。」と、見事に対応します。

 ですから、ここでは、まず、イエスの方(ほう)から、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と、話し掛けられます。

 そのとき、「二人は暗い顔をして立ち止まった。」と言うのです。

 つまり、彼らの深刻な挫折感を隠し切れなかったのではないでしょうか。

 ですから、次のようになんと高飛車(たかびしゃ)にイエスを決めつけます。

「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と。

 

(2)神と民全体の前で行いにも言葉にも力ある預言者でした(ルカ24:19b参照)

 ところが、イエスも何食わぬお顔で、尋ねられます。

「どんなことですか」と。そこで、彼らは、いとも得意げに、話し出します。

『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行(おこな)いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、このことばあってから、もう今日で三日目(みっかめ)になります。』と。

 ここで言われている「行いにも言葉にも力ある預言者でした。」ですが、ここで、「言葉と行い」ではなく、「行いと言葉」としているのは、イエスは、行いをまず先行させ、その行いの意味を説明するからです。

 また、このエマオへの二人の弟子の旅は、「行いにも言葉にも力のある預言者」と共にしたかつてのエルサレムへの旅の縮図(しゅくず)にほかなりません。

 とにかく、彼らがイエスの旅の意味を何も分からなかったようにここでも、心の目が閉ざされていたのです。

 

(3)旧約聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明された(ルカ24:27参照)

  忍耐強く、彼らの言い分をじっと聞いておられた復活のイエスは、とうとう本心をさらけ出し嘆かれます。

「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわり、御自分について書かれていることを説明された。」と。

 この神の救いの計画は、すでに旧約以来であり、それはイエスの御変容(同上9:31参照)においてモーセとエリアも話していました。

 まさに旧約聖書全体がキリストと関連づけられ、キリストにおいて完成するということは復活者自らの啓示によって初めて人々に信じ、悟りうるものなのです。

 ここまでの弟子たちの復活のイエスとの出会いは、わたしたちのミサでの「ことばの典礼」における体験といえましょう。

 ですから、続く「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊りください。・・・』と言って、無理に引き留めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目は開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」と。

 ちなみに、この後半の場面は、ミサの「感謝の典礼」と、受け止めることができるのではないでしょうか。

 ですから、わたしたちが、司祭とともにミサをささげる度(たび)ごとに、この二人の弟子たちと、全く同じように復活のイエスとの恵み豊かな出会いを体験しているのではないでしょうか。

 ちなみに、第二バチカン公会議による典礼刷新によって、前半の「ことばの典礼」において、A年、B年そしてC年の三年のサイクルで、聖書の主な箇所を朗読しているのです。ですから、典礼憲章において次のように典礼における聖書の大切さを、強調しています。

「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない。」(51項参照)と。

 さらに、近年、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように聖書を教会活動の中心にすべきことを、宣言しています。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを、『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。聴いて祝うみことばが―何よりも感謝の祭儀の中でー、キリスト者を養い、内的に強め、日々の生活の中で福音を真にあかしすることができるようにしてくれます(174項参照)。」と。

 わたしたちも、ミサを共に捧げるたびごとに心の目を開いていただき、復活のイエスとの感動的な出会いを豊かにし、福音を伝えていく勇気と力をいただくことができるように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230423.html