「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」
キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい
(コロサイ3:1参照)
今日の第二朗読は、使徒パウロが、56年から58年にかけて、ローマの獄中から、コロサイの教会の信徒に宛ててしたためた手紙の3章からの抜粋であります。
当時のコロサイの教会ですが、コロサイの人々を信仰に導いたエパフラスから、コロサイの信仰共同体に、誤った教えが彼らの間に広まっているという報告を聞いたので、この手紙を書く必要があったのでしょう。
ですから、まさに信仰理解の核心に触れる次のような説明をしています。
「皆さん、あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と。
このパウロの勧告は、明らかに洗礼の恵みを生きるというキリスト者の生き方の真髄(しんずい)に触れる教えではないでしょうか。
つまり、コロサイの信徒は、今、天にあって神の右の座に着いておられるキリストに結ばれた新しい生活を始めるために、洗礼の水槽(すいそう)の中からキリストと共に復活させていただいていると言うのです。
ですから、この新しい生き方は、以前の「地上のもの」に縛り付けられた生き方とは、全く異なるものなのです。
ちなみに、パウロはローマの信徒に宛てた手紙において、次のような洗礼の恵みについて核心に触れる説明をしています。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命(いのち)に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのであれば、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています(ローマ6:4-6)。」と。
ですから、パウロは続けます。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命(いのち)は、キリストと共に神の内(うち)にかくされているのです。あなたがたの命(いのち)であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」と。
つまり、洗礼後は、キリストに結ばれたキリスト者のいのちは、全く新しく以前とは違うものですが、それはまだ神の内(うち)に隠されていると言うのです。
とにかく、神のいのちは、栄光に輝くいのちなので、キリスト者の新しいいのちとは、まさに神のいのちに与(あずか)ることであり、ひいては、その神の栄光にも与ることになると言えましょう。
シモン・ペトロは、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た
(ヨハネ20:6参照)
次に、今日の福音ですが、イエスの愛しておられたもう一人の弟子が、最初にイエスの復活を信じることができたことを、いとも感動的に伝えています。
まず、場面は、イエスの御遺体が葬られているお墓です。
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスの愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。』」と。
光と闇とのコントラストを好んで使い分けるヨハネ福音記者は、マグダラのマリアの心理状態が、まだ復活を信じていない暗闇であったことに念を押しています。
ですから、「墓から石が取り去られてあるのを見た」だけなのですが、イエスの御遺体は何者かに盗まれてしまったと、まさに、早合点してしまったと言うのです。
一方、彼女の報告を聞いた「ペトロともう一人に弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより早く走って、墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと,亜麻布が置いてあった。」と。
ここで言われている「もう一人の弟子」ですが、ヨハネの福音書では、最後の晩餐の席上、初めて登場する無名の弟子(同上13:23参照)にほかなりません。
ちなみにこの謎の人物については、伝統的にはゼベダイの子ヤコブの兄弟(マルコ3:17参照)であるとしていますが、最近の研究によればヨハネ共同体の長老の一人とか、或いは実在しない理想の弟子像とするなど確定はできません。
とにかく、今日の場面では、ペトロよりも早く墓に着いて「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布がおいてあった。しかし、彼は中に入らなかった。」というのです。
そこで、遅れて墓に着いたペトロは、「墓に入り、亜麻布がおいてあるのを見た。」のです。
ここまでの登場人物たちが、最初に「見る」という体験はすべてギリシャ語では「セオーレー」ですが、「先に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」ときの、「見る」は、ギリシャ語では「エイドン」であり、「洞察(どうさつ)する」と言った意味合いを含んでいます。
ですから、肉眼で見ることの現象の背後を洞察(どうさつ)するという「見る」と言えましょう。
つまり、その目が与えられれば、イエスの出来事の背後に神の偉大な働きを見て悟り、まさに、地上に生きながら、今日の第二朗読で、強調している「上にあるものを求めて生きる」ことが出来るようになるのではないでしょうか。
実は、パウロも、彼の復活のイエスとの運命的出会いによって、彼の生き方が、根本的に変えられたことを、次のように分かち合ってくれます。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属しベニヤミン族の出身で、生粋(きっすい)のヘブライ人です。律法にかんしてはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになりました。それどころか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他(た)の一切を損失(そんしつ)と見ています。わたしは、このキリストのゆえに、すべてを失いました。しかし、それらのことなどは屑(ちり)に過ぎなかったと見なしています。わたしはこのキリストの故にすべてを失いました。しかし、キリストを知り、その復活の力を知り、また、キリストの苦しみにあずかることを知って、ますます、キリストの死の様(さま)を身に帯び、なんとかして死者のなからの復活するまでに達したいのです(フィリピ3:6-11)。」と。
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