四旬節第3主日・A年(23.3.12)

「主よ、渇くことのないようにその水をください」

 

 今日の第一朗読は、旧約聖書における救いの出来事の最初のクライマックスとも言えるエジプトの奴隷の家からの解放後の最初の試練を、次の様に伝えています。

「その日、民は喉(のど)が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」と。

 そこで、モーセは、さっそく主なる神に、尋ねます。

「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。『見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』と。

 ちなみに、使徒パウロは、この出来事を、ユダヤ教に伝わる伝説に基づいて、次のように説明しています。

「わたしたちの先祖はみな雲の覆いに守られ、みな海を通り抜け、雲の中で、皆洗礼を授けられモーセと一致しました。また、みな同じ霊的な食べ物を食べ、みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、後(あと)からついて来た霊的な岩からでしたが、その岩とはキリストでありました。しかし、彼らの多くはみ心に適わなかったので、荒れ野で滅ぼされてしまいました(一コリント10:1b-5)。」と。

  ちなみに、聖週間の典礼では、荒れ野でのイスラエルの試練を次のように洗礼と結び付けています。

「秘跡のしるしを通して救いの恵みを与えてくださる全能の神よ、あなたは旧約の歴史の中で、水によって洗礼の恵みを表してくださいました。

 天地の初めに、あなたの霊は水の面(おもて)をおおい、

 人を聖とする力を水にお与えになりました。

 ノアの洪水の時、水をあふれさせて、罪の終わりと新しいいのちの始まりである洗礼のかたどりとしてくださいました。

 アブラハムの子孫がエジプト脱出の時、海の中に渇いた道を備えて約束の地に渡らせ、ファラオの奴隷から解放して、この民を、洗礼を受ける人々のしるしとしてくださいました。」(聖なる過越の三日間復活徹夜祭)と。

 

わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています

(ヨハネ4:25)

 次に、今日の福音ですが、イエスとサマリアの女との極めて感動的な出会いを、次のように伝えています。

 時は、中近東の最も暑い真昼時(まひるどき)です。

「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午(しょうご)ごろのことである。

 サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。・・・すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人とサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物(たまもの)を知っており、また、〔水を飲ませてください〕と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方(ほう)からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。・・・』

 イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出(いで)る。』

 ここで言われている「ユダヤ人とサマリア人とは交際しないから」の説明ですが、サマリア人は、紀元前8世紀の捕囚の時にイスラエルに残った者と、アッシリア王が植民として送り込んだ異教徒との混血児の子孫で、確かにユダヤ人とは仲が悪かったということです。更に、この感動的な出会いの核心に触れる対話ですが、イエスの次のような宣言です。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出(いで)る。」と。

 実に、この女が出会ったのは、ヨハネ福音書の冒頭で歌われている「神であるみ言葉」にほかならないので、イエス御自身が「生きた水」であり、「永遠の命に至る水を湧き出させる」ことが、出来るのです。

 では、「永遠のいのち」とは、一体何なのですか。それは、イエス御自身が、弟子たちとの最後の晩餐の後(あと)、御父に向かっての祭司的祈りで次のように宣言なさいました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(同上17:3)。」と。

 まず、御子だけが、御父を“見ることが出来”、すなわち“知る”ことが出来『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(同上1:18)。」、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである(同上6:46)。」

 つまり、人となられたみ言葉イエスこそが、われわれに父なる神を示すことがおできになるのです。ですから、父と子と聖霊の交わりに入ることが、永遠のいのちを生きることにほかなりません。

 つぎに、このサマリアの女とイエスとの対話で、まず、真(まこと)の礼拝についてイエスの大切な次のような宣言が続きます。

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と。

 ですから、新しい礼拝は、場所に依存するのではなく、イエスの提供する真理の霊から溢れ出る礼拝と言えましょう。

 つまり、ヨハネの手紙では、神は霊であり、神は光であり、神は愛であると、まさに神の人間への関係性を強調しています(一ヨハネ1:5;4:8。)

 すなわち、神はわたしたちに霊を与え、わたしたちを愛し、光である独り子を与えでくださるので、父なる神を礼拝することができるのです。

 最後に、このサマリアの女が、なんとみごとに『福音宣教者』に変身したことを、ヨハネは次のように強調しています。

「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」と。

 ですから、教皇フランシスコは、次のように強調なさいます。

「今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』というお言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれています(『福音の喜び』20項参照)。」と。

 

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230312.html