四旬節第2主日・A年(23.3.5)

「これはわたしの愛する子わたしの心に適う者 これに聞け」

 

わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福しあなたの名を高める

(創世記12:2参照)

 

 今日の第一朗読は、神の民の先祖アブラハムの召命物語を、いとも荘厳に次のように伝えています。

「主はアブラムに言われた。

 『あなたは生まれ故郷(こきょう)

    父の家を離れて

    わたしが示す地に行きなさい。

    わたしはあなたを大いなる国民にし

    あなたを祝福し、あなたの名を高める

    祝福の源(みなもと)となるように。」と。

 この物語は、おそらく紀元前11世紀頃の古い資料に基づく信仰の父アブラハムに対する命令であると同時に約束が荘厳な語り口で語られている場面であります。

 まず、ここで呼び掛けておられる神は、ヘブライ語では、「ヤーウェ」と発音されていた神を表しています。

 けれども、この言葉は、黙読されていたので、実際にはどのように唱えられていたかは、全くわからないので、近年では「主」と明記するようになりました。

 とにかく、古い伝承に基づいているので、主なる神がアブラハムに直接語り掛けているように伝えられています。

 しかも、この神の命令こそが、アブラハムの召命の宣言に他なりません。

 それは、それまでの血縁関係と地縁関係を断ち切って、主が示す新しい土地に向けて旅立つことに他なりません。

 さらに、「祝福の源となるように」と、とてつもない重大な使命が与えられるのであります。このように、彼の人生は、まさに人類的広がりをもっていたと言えましょう。

 ちなみに、聖書で、初めて「祝福(しゅくふく)という言葉が使われたのは、創世記の一章の22節の「そこで神はそれらのものを祝福(しゅくふく)して、『生めよ、増えよ、海の水に満ちよ、また鳥は地に増えよ(創世1:22)』」ですので、神から与えられる生命力と言えましょう。

 今日の箇所は、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」で締めくくられていますが、信仰とは「神に聞き従うことである」と、定義づけることができるのではないでしょうか。

 ですから、故郷(ふるさと)と父の家を離れて、つまりそれらを捨てて、神の示す全く新しい土地に向けて旅立つことが、アブラハムの信仰の旅の始まりであったのです。

 

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し非常に恐れた(マタイ17:6参照)

 次に、今日の福音ですが、主の御変容(ごへんよう)の場面を、次のように、極めて荘厳に伝えています。

「イエスの姿が彼ら目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と。

 実は、この素晴らしい出来事に参加できたのは、ペトロ、ヤコブそしてその兄弟ヨハネだけですが、これら三人こそ、ゲッセマネの園で、イエスのもだえ苦しまれるのを目(ま)の当たりした弟子たちにほかなりません。

 ですから、この出来事は、イエスの栄光の前印(まえじるし)である変容と、栄光の前提である受難との密接な関係を暗示していると言えましょう。

 続いて、「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」と報告されていますが、一体何を話し合っていたのでしょうか。

 このことについては、ルカがこの平行箇所で、次のように説明しています。

「それはモーセとエリヤで、彼らは栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期(さいご)について語り合っていた(ルカ9:30b-31)。」と。

 ちなみに、ここで登場するモーセとエリヤですが、それぞれ旧約の預言者を代表し、ここでは、二人はイエスが旧約聖書の中で約束され述べられているメシアであることを証明するために現れたと言えましょう。

 そこで、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」と。

 ここで、ペトロが提案した三つの「仮小屋」ですが、仮庵(かりいお)の祭り(レビ23:33-36参照)を想定していたのではないでしょうか。ちなみに、ヨハネでは、「仮庵祭(ヨハネ7:2)」と、呼ばれています。とにかく、この祭りでは、イスラエル人は屋上や庭に仮庵を造り、その中で祝うのであります。そこでは、まさに天国での喜びが象徴されていると言えましょう。

 次に、「ペトロが話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると。イエスのほかにはだれもいなかった。」と。

 ここでの弟子たちの体験は、私達のイエスに対する信仰の原点についての確認ではないでしょうか。つまり、イエスに対する信仰を生涯かけて全うするのは、まさに、日々、イエスの声に聞き従うことと言えましょう。

 ちなみに、パウロはイエスに対する信仰体験の原理について、次のように説明してくれます。

「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣(の)べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べつたえることができよう(ローマ10:13-14)。」と。

 ですから、イエスに聞き従うために、どうしてもイエスのお言葉を聞かせる宣教者が必要なのです。しかも、教会ぐるみでイエスのお言葉を宣べ伝えなければ、だれもイエスのお言葉を聞くことが出来ません。

 したがって、教皇フランシスコは、教会の宣教の使命を次のように強調しています。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出発せよという呼び掛けを受け入れました(創世記12:1-3)。・・・神はエレミヤに命じます。『わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行け』(エレミヤ1:7)。今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に招かれています。・・・わたしたち皆が、この呼び掛けにこたえるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のいい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅においやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです(『福音の喜び』20項)。」と。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230305.html