四旬節第一主日・A年(23.2.26)

「人はパンだけで生きるのではない 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

 

それを食べると目が開け神のように善悪を知る者となる(創世記3:4参照)

  今日の第一朗読で創世記の紀元前11世紀頃にまでさかのぼる古い資料に基づいて最初の人間の創造物語が、次のように極めて具体的な説明をしています。

「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と。

 ちなみに1章で語られる人間の創造は、次のような極めて荘厳な語り口で説明しています。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された(同上1:26-27参照)。」と。

 しかも、今日の朗読箇所の直前では、人間がエデンの園に住むようになり、早速掟(おきて)が与えられます。

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園(その)のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう(同上2:15-17)。』と。

 ところが、女が、蛇の誘惑に負けてしまいます。

「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 この物語で明らかなのは、罪とは神の掟に背くことであると定義できることです。

 ですから、罪を犯した羞恥心から、自分を神から隠すという心理描写を、次のように報告しています。

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人は無花果(いちじく)の葉を、つづり合わせ、腰を覆うものとした。」と。

 

あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ(マタイ4:10c参照)

    次に今日の福音は、イエスの悪魔からの誘惑の体験を極めて具体的に伝えています。ちなみに、ルカは同じ体験を、次のような出だしで初めています。

「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊“によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた(ルカ4:1-2)。」と、明らかに聖霊の働きが同時進行しています。

 そこでまず、第一の誘惑ですが、マタイは次のように説明します。

「そして40日間、昼も夜も断食した後(のち)、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『〔人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる〕と書いてある。』と。

 ここで言われている「神の子」ですが、旧約聖書では、神の特別な恩恵に与(あずか)る者が、神の子と呼ばれていますが、ここでは、メシアの偉大な品位をあらわしたものと言えましょう。新しいイスラエルとしてのイエスが荒れ野で40日間、三つの誘惑を受けられたことは、古代イスラエルが、荒れ野で四十年間、三つの試練を受けたことと見事に一致します。

 ですから、この第一の誘惑は、かつて、イスラエルが荒れ野で、神の摂理(せつり)によるマナに満足せず、他のものを求めたことを思い起こさせます(出エジプト16,申命8:3参照)。

 とにかく、この第一の誘惑ですが、イエスの人間的な弱さに付け込んだものと言えましょう。

 次に、第二の誘惑ですが、「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら,飛び降りたらどうだ。〔神があなたの天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える〕と書いてある。』イエスは、『〔あなたの神である主を試してはならない〕とも書いてある』と言われた。」

 この第二の誘惑は、かつてイスラエルがマッサにおいて水を求めて神を試みた(出エジプト17:2-3)ことを、思い起こさせます。

 ですから、この誘惑で悪魔は、イエスを父なる神から引き離そうとしていることは明らかです。とにかく、悪魔は、イエスが大いなる権威と権能を表して人々の前に立つことをすすめるのですが、父なる神は、それとは反対に、イエスをメシアとして、貧しさと辱(はずかし)めと苦しみと死によって世を贖(あがな)うことを望んでおられるのです。

 最後に第三の誘惑ですが、ルカは次のように描いています。

「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものとなる。』」と。

 これはまさに今日(こんにち)における新しい偶像崇拝への誘惑ではないでしょうか。ですから、特に、地球規模で今日の世界にはびこっている新しい偶像崇拝に対して教皇フランシスコは、次のように厳しく警告しています。

「わたしたちは、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。現在の金融危機は、その根源に深刻な人間性の危機―人間優位の否定-があることを忘れさせてしまいます。わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真(まこと)に人間的な目標の不在の、貨幣経済と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代の金の雄牛の崇拝(出エジプト32:1-35)が、新しい、冷酷な姿を表しています(『福音の喜び』55項)。」と。

 さらに、今日の世界は、核兵器という恐ろしい偶像をたくさん貯えるという抑止力によって平和を保とうとする神話に取り憑(つ)かれていると言えましょう。

 ですから、教皇フランシスコは、2019年11月24日、長崎・爆心地公園で、次のようなまさに預言的なアッピールをなさいました。

「この地、核兵器が人間的にも環境的にも悲劇的な結果をもたらすことの証人であるこの町では、軍備拡張競争に反対する声を上げる努力が常に必要です。・・・核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数えきれないほどの人が熱望していることです。この理念を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなければなりません(『すべてのいのちを守るため:教皇フランシスコ訪日講話集』18-19頁)。」と。

 最後にイエスがもたらす平和についてのパウロの宣言を、紹介します。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ2:14-16参照)。」

   この四旬節の間、内戦や戦争で犠牲になった方々(かたがた)のために、具体的な愛の実践に励むことができるように、共に祈りましょう。

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230226.html