神の母聖マリア(2023.1.1)

「マリアはこれらの出来事をすべて 心に納めて思い巡らしていた」

 

主があなたを祝福しあなたを守られるように(民数記6:24参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、民数記が伝える祭司による祝福の祈りにほかなりません。

 ちなみにこの民数記ですが、紀元前6世紀あるいは5世紀のバビロン捕囚直前か捕囚中、申命記伝承編集者たちによってまとめられたと考えられます。

 しかも、その伝承は祭司伝承によるものであり、モティーフは「荒れ野を旅するイスラエルの民」と言えましょう。

 そして、今日の場面では、主なる神が、祭司たちが唱える祝福の祈りを、モーセに次のように命じておられます。

「アロンとその子らに言いなさい。

 あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。

 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔(みかお)を向けてあなたを照らし

   あなたに恵みを与えられるように。

 主が御顔(みかお)をあなたに向けて

   あなたに平安を賜(たまわ)るように。」と。

 ちなみに聖書では、祝福とは、本来、人々の内(うち)に繁栄(はんえい)や幸福をもたらす神の思いやりや恵みを表しています。ですから、人にだけでなく物に対しても、例えば次のように祝福が注がれます。

「イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である(マルコ14:22参照)。』」と。

 ですから、今日の答唱詩編は、祭司たちの祝福の祈りに対する会衆の応答と言えましょう。

「神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。

 あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。・・・

 地は豊かに実り、

 神はわたしたちを祝福された。」と。

 

マリアとヨセフと乳飲み子を探し当てた(ルカ2:16参照)

 次に、今日の福音を振り返って見ましょう。

 今日の箇所は、降誕祭の夜半のミサで朗読されたルカによる福音の続きで、羊飼いと母マリアの様子が、対照的(たいしょうてき)に報告されています。

 まず、羊飼いたちですが、「そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、〔彼らは、〕この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」と。

 ここで確認すべきことですが、彼らがそのような大胆な行動に移ることができたのは、恐れている彼らに宣言した天使の次のような言葉に従ったからにほかなりません。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう(同上2:11)。」と。

 つまり、主の栄光に照らされて非常に恐れていたにも関わらず、天使の告げたことを、その言葉通り信じたということではないでしょうか。つまり、救い主の誕生を信じたことにほかなりません。

 ですから、彼らは、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」と、早速次の行動に移ることができたのです。

 ちなみに、今日(こんにち)の日本においては、クリスマスはあたかも国民の祭日のように、家庭や職場でも祝われていますが、肝心な乳飲み子イエスが、全く見当たりません。

 つまり、クリスマスの本当の出来事をまだ、知らされていなのではないでしょうか。

 これは、メシアであるイエスの誕生という神の偉大な救いの出来事を福音として信じているキリスト者の怠慢の結果と言えましょう。

 実は、聖パウロ六世教皇は、1975年12月8日、「現代世界における福音化について」使徒的勧告を発布なさいました。教皇パウロ六世は、その中で次のように強調しておられます。

「『わたしたちは、すべての人々に福音を宣(の)べ伝えることが教会の第一かつ本来の使命であることを、ここに再び確認したいです』。それは、今日(こんにち)、著しく変化しつつある社会では、命令かつ召命です。教会はまさに福音を宣(の)べ伝えるために存在しています。すなわち、神のことばを説き、教え、恵みを与える手段となり罪人を神に立ち返らせ、キリストの死と栄光ある記念であるミサ聖祭によってキリストのいけにえを永続させるために教会は存在しているのです(『使徒的勧告福音宣教』14項参照。)」と。

 さらに、教皇フランシスコは、伝統あるキリスト教諸国において、日本を含めて、特に子ども、若者たちに信仰が十分に伝達されていない今日(こんにち)の教会の深刻な問題に取り組んだシノドスの結果をまとめられた使徒的勧告『福音の喜び』を、2013年11月24日に発布(はっぷ)なさいました。その中で、特に次のことを強調なさっておられます。

「教会の福音宣教への招きは、キリスト者にとって、自己実現の真(まこと)の活力を示されることにほかならないのです。『ここにわたしたちは人間のあり方(かた)についてもう一つの深い法則を見出します。つまり、他者に命を与えるときこそ、命は成長し、成熟(せいじゅく)します。つまるところそれが福音宣教です。』ですから、福音を宣教する者は常に、弔(とむら)いのときのような顔をしていてはなりません。熱意を取り戻し、さらに増していきましょう(同上10項参照)。」

「新たな福音宣教は、信者に(なま)ぬるい、あるいは教えを実践しない者にも、新しい信仰の喜びと、福音宣教の豊かさをもたらします。事実、その中心と本質は、つねに同じです。つまりそれは、キリストの死と復活において、ご自身の限りない愛を示された神です。その神が、信者をいつも新たにしてくださいます。どれほど年を取っても『新たな力を得、鷲(わし)のように翼(つばさ)を張って(のぼ)。走っても弱ることなく、歩いても疲れない』(イザヤ40:31)のです。・・または聖イレネオが言うように、『キリストの到来はすべてに新しさをもたらす』のです。キリストはその新しさによって、わたしたちの生活と共同体をつねに刷新(さっしん)することができます(同上11項)。」と。

 最後に、今日の福音が伝える母マリアに注目してみましょう。

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納(おさ)めて、思い巡らしていた。」

 ここで言われている「出来事」ですが、「ことば」とも訳すことができます。ですから、マリアはイエスの誕生にまつわる「これらのことばをすべて心に納(おさ)めて、思いめぐらしていた。」となり、私たちもマリアに倣(なら)って救いの出来事にまつわるすべてのことばを深く味わい黙想することによって、まさに神の偉大な救いのみ業に参加させていただけるのではないでしょうか。

 


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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230101.html