「モーセと預言者に耳を傾けないのなら その言うことを聞き入れはしないだろう」
災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸(あんいつ)をむさぼる者らは
(アモス6:1a参照)
早速、今日の第一朗読ですが、先週に引き続き、アモス書6章からの抜粋であります。
時代背景としては、北イスラエル王国が軍事大国アッシリアによって滅ぼされる直前の紀元前8世紀と言えましょう。
そこで、預言者アモスは、イスラエルに対する警告と審判のテーマを、その時代の権力者たちの生き方を、厳しく次のように非難しながら強調しています。
「災いだ、シオンに安住し
サマリアの山で安逸(あんいつ)をむさぼる者らは。
お前たちは象牙の寝台に横たわり
長いすに寝そべり
羊の群れから小羊を取り
牛舎から子牛を取って宴(うたげ)を開き
竪琴(たてごと)の音(ね)に合わせて歌に興じ
ダビデのように楽器を考え出す。」と。
つまり、アモスは、特にイスラエルの上流階級と権力者たちのおごりと、恙無(つつがな)い暮らし、特に貧しい人達への無関心な態度を批判し、その思い上がりがやがて国の破滅を招く軍事強国アッシリアによる征服に至ることを予告しているのです。
ちなみに、ここで言われている「象牙の寝台や長いす」ですが、眠るためよりは宴会のためなのです。
当時、庶民は、床に座って食事をしていたことを考えると、支配階級がいかに傲慢な生き方をしていたか、また、「小羊や子牛」を食す極めて贅沢(ぜいたく)な生活がうかがわれます。
ちなみに教皇フランシスコは、今日(こんにち)の世界での他者を排除し無関心になる傾向を、次のように鋭く非難しておられます。
「他者を排除する生活様式を維持するために、また自己中心的な理想に陶酔するために、無関心のグローバル化が進んだのです。知らず知らずのうちに、他者の叫びに対して共感できなくなり、他者の悲劇を前にしてもはや涙を流すこともなく、他者に関心を示すこともなくなってしまいます(『福音の喜び』54項参照。)」と。
さらに次のように警告を続けられます。
「現在、多くの方面で、さらなる安全が求められています。しかし、社会や人々の間での排除と格差が取り除かれないかぎり、暴力を根絶することは不可能でしょう。暴力は貧しい人々や貧困層のせいだと非難されていますが、機会(チャンス)の不均衡は、さまざまな攻撃や戦争の温床となり、遅かれ早かれ爆発を引き起こします(同上59項参照)。」と。
続いて、次のような今日における司牧活動の促進を勧めておられます。
「ポスト・モダン(脱近代主義)とグローバル化(全地球的)の時代に特有な個人主義は、人と人の間のきずなの成長と安定性を弱め、家族のきずなの本性をも変えてしまう生活様式に加担しています。司牧活動においては、父なる神とのつながりが、人と人の間のきずなをいやし、促進し、強める交わりを求め養うということをさらに示さなければなりません(同上67項参照)。」と。
私たちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって そこから私たちの方に超えて来ることもできない。
(ルカ16:26参照)
次に今日(きょう)の福音ですが、先週に引き続きルカ福音書16章からの抜粋であります。
今日の場面は、イエスがファリサイ派の人々に話されたたとえですが、前半のテーマ(19節から25節)と後半のテーマ(27節から31節)に分け、26節の「わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」が、双方を結び付けていると言えましょう。
つまり、前半のテーマは、金持ちは地上で享楽(きょうらく)をほしいままにしていても、死後に国では苦しむが、一方、貧しい人はこの世で苦しんでいても、後(のち)の世では必ず慰められるという教訓と言えましょう。
さらに、この金持ちが、自分のこの世での楽しみだけを追求し、自分の家の門前で物乞いをしている貧しい人を全く顧みなかったという暗示があります。
ちなみに物乞いをするラザロの人柄については何も語られませんが、ユダヤの伝統では、ラザロという名前は、「神は助ける」を意味しているので、それに見合った信心深い人のような印象を与えるのではないでしょうか。
けれども、このたとえには、そのような信心については一言(ひとこと)もないので、信心深いから神が助けてくださるという解釈は成り立ちません。
とにかく、イエスの教えは、マリアの賛歌で歌われているように、
「権力ある者をその座から降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富めるものを空腹のまま追い返されます(同上1:52-53参照)。」なのです。
しかも、ルカ福音書に登場する金持ちは、自分の利益と享楽(きょうらく)しか念頭にありません(同上12:13-21参照)。
次に、後半のテーマですが、もし律法と預言者のことばも金持ちを回心させることができないのであれば、どんな奇跡によっても、たとえ死者を生き返らせて金持ちの兄弟たちの所へ送ったとしても彼らは回心しないと言うのです。
つまり、奇跡というしるしによってイエスを信じさせることの無益さを指摘していると言えましょう。
そして、この後半のテーマによって、たとえ全体は、回心しない人々への警告、つまり終末(救いの完成)の裁きの警告になっています。
ちなみに、19節で言われている「紫の衣(ころも)や柔らかい麻布」は、当時の金持ちや王侯貴族たちの着る衣(ころも)でした。
ところで、金持ちの門前(もんぜん)で横たわっていたできものだらけの貧しい人ラザロを軽蔑し、金持ちを尊敬するのは洋(よう)の東西を問わず人の世の常ではないですか。とにかく22節で双方の運命が転換され、ラザロは、「宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれる」のです。
これは、まさにアブラハムの子として迎え入れられるということと、宴席での主客として招かれたことを表しているのです。
ちなみに、死後の宴会での物乞いの在世中の飢えの惨めさが極めて対照的と言えましょう。
一方、金持ちが、「炎の中でもだえ苦しむ」のも、極めて対照的です。また、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」ですが、まさにイエスを信じないことにほかなりません。
なぜなら、復活のイエスを信じなかったクレオパともう一人の弟子に、イエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された(同上24.27参照)。」からです。
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