三位一体の主日(22.6.12)

「わたしが父のもとから遣わす弁護者が 証ししてくださる」

 

 初めに、本日の祭日の由来を、振り返ってみましょう。

 ちなみに、聖霊降臨の主日後の日曜日には、救いの歴史における具体的な出来事にまつわる主題に基づく祭日はなく、むしろキリスト教信仰の特定の主題を祝う祭日が設定されています。

 ですから、本日の祭日のように、三位一体の神秘を礼拝の対象とする祭日の必要性は古代にまでさかのぼると言えましょう。実は、古代教会においては、祈りの対象はあくまでも「父なる神」であったのであります。ところが、父なる神に対して、キリストをとおして聖霊において祈っていることに気付いたのではないでしょうか。

 従って、今やキリストと聖霊をも含む三位一体の神ご自身が祈りの対象であることを確認し、三位一体の神をキリスト教信仰の中心的教義とするようになったと言えましょう。

 

わたしは生みだされていた(箴言8.24参照)

 それでは、今日の聖書朗読箇所の解説に移りましょう。

 まず、第一朗読ですが、知恵文学の代表的文書といえる箴言の8章からの抜粋であります。

 ちなみに、特に旧約聖書における知恵文学は、古代の中近東で発達した文学形式が、イスラエルにも影響を与え成立した文学類型と言えましょう。しかも、この文学形式は、知者または賢者と呼ばれる人々によって作り出されたとも考えられます。

 特に、この箴言は、過去の歴史を研究し、将来を説明しようとしている文学ではないでしょうか。

 ですから、今日の朗読箇所は、知恵の誕生を次のように繰り返しています。

「主は、その道の初めにわたしを造られた。・・・

 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

 太初(たいしょ)、大地に先立って。

 わたしは生みだされていた

 深淵(しんえん)も水もみなぎる源(みなもと)も、まだ存在しないとき。

 山々の基(もとい)も据えられてはおらず、丘もなかったが、

 わたしは生み出されていた。」と。

 このように、知恵は、やがて新約聖書においては、次第に人格化し永遠の神のことばであるイエス・キリストに結び付けられるようになったのではないでしょうか。

 ちなみに、ヨハネ福音の冒頭には、すでに初代教会で歌われていた賛美歌が、次の様に紹介されています。

「初めに、み言葉があった。

 み言葉は神とともにあった。

 み言葉は神であった。・・・

 み言葉は人間となり、

 われわれのただ中に住むようになった。」(ヨハネ1:1-14参照)と。

 

聖霊によって 神の愛がわたしたちの心に注がれている(ローマ5.5参照)

 次に、第二朗読ですが、使徒パウロが編集したと考えられるローマの教会への手紙5章からの抜粋であります。

 ちなみに、今日の箇所で、使徒パウロは、神の愛こそが、私達の救いの保証であることを、次の様に説明しています。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入(い)れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。

・・・わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と。

 まさに、父と子と聖霊の神によってこそ、私たちは救いに与ることができると強調されています。

 

真理の霊があなたがたを導いて 真理をことごとく悟らせる(ヨハネ16.13参照)

 最後に今日の福音ですが、ヨハネ福音書の16章からの抜粋であります。

 ちなみに、この福音書こそ父である神と、聖霊について最も詳しく語っているのではないでしょうか。

 つまり、ヨハネ福音書の文脈では、最後の晩餐の席上、イエスが弟子たちに切々と語られた最後の説教の中で、特に聖霊を送る約束とその働きについて次のように詳しく説明されています。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。・・・あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。・・・

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしの話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(同上13:16-26参照)と。

 ここで、なぜ聖霊を「別の弁護者」と言ったのかは、実は、ヨハネの手紙一で、次の様にイエスご自身を弁護者と言っているからにほかなりません。

「わたしの子たちよ、これらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪をおかしても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(一ヨハネ2.1参照)と。

 ちなみに、ヨハネ福音書によれば、ルカが伝えているように、弟子たちが聖霊を受けたのは、過越祭から数えて50日目の五旬祭ではなく、なんとイエスが復活させられた当日の夕方であることを、ヨハネは次の様に報告しています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。・・・イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、かれらに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(同上20.19-22参照)と。

 ですから、わたしたちも、弟子たちと同じように福音宣教のため全世界に派遣されるので、すでに洗礼と堅信とによって聖霊を注がれ、その賜物までもいただいているのです。

 ですから、私達の共同体は、内輪向きの閉鎖集団に留まっていることはできません。したがって、近年、教皇フランシスコがしきりに呼びかけておられる「出向いて行く教会になるように」まさに、根本的な回心が必要ではないでしょうか。

 教皇は、叫んでおられます。

「今日(こんにち)、イエスが命じる『行きなさい』というお言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。・・・喜びに満ちて派遣されたところから戻って来た七十二人の弟子は、聖霊によって派遣された宣教の喜びを体験しました。主は、聖霊によって導かれるままに他の民のもとに出向いて行かれました。」(『福音の喜び』20-21項参照)と、強調なさっておられます。

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220612.html