キリストの聖体の祭日(22.6.19)

「パンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」

 

本日の祭日の由来

    まず初めに、本日の祭日の歴史的成り立ちについて振り返ってみましょう。

 実は、中世のヨーロッパの教会では、ミサ典礼そのものに対する関心が薄らいでしまい、1200年ごろには、むしろもっぱら聖体の秘跡のみに集中し、特にパンが聖変化したホスチアを大きくし、司式司祭の背後に敬虔に跪(ひざまず)いている会衆に高く掲(かか)げて見せる習慣が始まったと言うのです。

 ですから、結果的にミサ以外において聖体を賛美するベネディクションや街を練(ね)り歩く聖体行列などを盛んに行うようになったのではないでしょうか。

 以上のような聖体に対するいわば信心業が盛んになった背景において、聖体の祭日は、1209年ベルギーのリエージュのアウグスチヌス修道会シスターユリアナの聖体にまつわる神秘体験が切掛け(きつか)となって制定されたと言えましょう。

 ちなみに、近年、特に英語圏の教会では、「キリストの聖体の祭日」ではなく、「キリストの至聖なる御体(おんからだ)と御血(おんち)の祭日」と言い換えております。

 それでは、何時(いつ)ものように、聖書朗読箇所の解説に移りましょう。

 まず、第一朗読ですが、創世記14章からの抜粋であります。

 ちなみにこの段落で初めて祭司メルキセデクが登場し、真(まこと)の礼拝とは、人の願望を実現する手段ではなく、むしろ人と神との間を祝福の力が行き交うことに他ならないと言うのであります。

 また、ヘブライ人への手紙では、次のような説明があります。

「キリストもまた、大祭司になる光栄を、自分で得たのではなく、『あなたは、わたしの子、わたしは、今日(きょう)、あなたを生んだ』と仰せになった方から、お受けになったのです。またほかの箇所でも、神は、『あなたは、メルキセデクの系統(けいとう)による永遠の祭司』と仰せになっています。」(ヘブライ5.5-6参照)と。

 

わたしの記念としてこれを行いなさい(一コリント11.25参照)

  次に今日の第二朗読によって、使徒パウロは、派閥争いで分裂の危機にさらされていたコリントの教会共同体の一致の要(かなめ)が、まさにミサに他ならないことを確認するためにこの手紙をしたためたのではないでしょうか。

 ですから、冒頭でミサ聖祭が、イエスご自身による制定であることを、次のように強調しています。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」と。

 しかも、この段落が、使徒パウロのミサの制定に関する資料として、最初に書かれて公(おおやけ)にされたのであります。

 まず、ミサの制定の日時(にちじ)ですが、「イエスは引き渡される夜」と明言(めいげん)していますので、私達の暦では、木曜日の日没後となり、ユダヤの暦に従えば日没から始まった金曜日の夕方にほかなりません。

 次に、イエスの仕草(しぐさ)を具体的に説明しています。「パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、」と。

 今現在わたしたちが唱えているミサの文言では、「裂き」の代わりに「割って」となっていますが、今年の待降節からは、「裂いて」に変わります。

 さらに、今日の箇所の、「この杯(さかずき)は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」とは、例えば出エジプト記の次のような場面を連想できるのではないでしょうか。

「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られる言葉をすべて行います。』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱を十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々に若者を遣わし、焼き尽くす献(ささ)げ物をささげさせ、更に和解の献(ささ)げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。」(出エジプト24.3-7参照)と。

 もちろんミサにおいては、「過越の小羊として屠(ほふ)られた」十字架上のキリストの血にほかなりません。

 ちなみに、今年の待降節から実施される新しいミサの式文によれば、ミサの最後の派遣の祝福の文言の中に、「感謝の祭儀を終ります。行きましょう、主の福音を告げ知らせるために。」が、加えられます。

 

賛美の祈りを唱え裂いて弟子たちに配らせた(ルカ9.16参照)

  最後に今日の福音ですが、ルカによる福音書の9章からの抜粋であります。場面はパンの奇跡であります。

  実はこの奇跡こそすでにモーセの時代のイスラルの民の荒れ野での40年にわたる試練の旅での出来事に遡(さかのぼ)ることができます。つまり、出エジプト記が伝えている次のようなエピソードを思い起こさせるのです。

「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要なだけ集める。』(出エジプト16.4参照)と。

 ですから、この旧約時代の記憶をさらに豊かにするために、ここでイエスを登場させ、イエスの憐れみ、とりわけ貧しい人達と飢えた人々に対する思いやりをも強調していると言えましょう。

 さらに、このパンの奇跡の物語は、主の最後の晩餐でのミサの制定を先取りしているのではないでしょうか。

 それは、この奇跡でイエスが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。・・・そして残ったパンの屑(くず)を集めると、十二籠もあった。」の下りであります。

 特に、「賛美の祈りを唱え」は、ヨハネの平行箇所では、「感謝の祈りを唱え」(ヨハネ6.11参照)と言い換えられており、まさに感謝の祭儀をあらわすエウカリステオという動詞が使われています。

 また、ここで言われている「裂いて」は、すでに今日の第二朗読箇所で説明したとおりです。 

 さらに、「集めると」ですが、実は、ミサの前半の「ことばの典礼」を生み出した言葉と言えましょう。

 また、「パンの屑(くず)ですが、初期キリスト教文学では、聖体(ホスチア)を表す専門的な名称として使われていたということです。

 とにかく、パンの奇跡は、ミサつまり感謝の祭儀を前もって先取りしている出来事にほかなりません。

 ちなみに第二バチカン公会議が最初に取り組んだのが典礼改革でした。

 ですから、『典礼憲章』において典礼の大切さを次のように強調しています。

「典礼は教会が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れでる源泉である。使徒的な活動が目指すところは、すべての人が信仰と洗礼を通して神の子となって、一つに集まり、教会の中で神をたたえ、<いけにえ>にあずかって主の晩餐を食することにあるからである。」(同10項参照)と。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220619.html