復活節第3主日・C年(22.5.1)

「福音宣教の喜び」

イエスの名のために(使徒言行録5.41参照)

   今日の第一朗読は、使徒言行録の5章からの抜粋であります。

 この書物は、ルカ福音記者が、その福音書の第二部として、西暦30年から63年までの初代教会における使徒たちの宣教活動を編集したと考えられます。しかも、その前半は、使徒の頭(かしら)であるペトロが主人公であり、後半は異邦人の使徒パウロに代わります。

 ですから、今日の場面では、「使徒たちは主の復活について偉大な力をもって証(あか)し、大きな恵みが彼らの上にあったので、・・・ますます多くの男女が、主を信じて仲間に加わった。」(同上4.33;5.14参照)と報告しています。

 ところが、「大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の人々は皆、妬(ねた)みに燃え上がり、使徒たちを捕えて、公共の留置所(りゅうちしょ)に入れた。」(同上5.17参照)というのです。そして、今日の場面に移ります。

 とにかく、厳しい尋問(じんもん)に対して、ペトロと他(ほか)の使徒たちは、毅然(きぜん)として答えます。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺してイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、その方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えなった聖霊も、このことを証ししておられます。」と。

 この取り調べの後(あと)、弟子たちは釈放されますが、そのときの彼らの心境(しんきょう)を、ルカは次のように説明しています。

「使徒たちは、イエスの名のために辱(はずかし)めを受けるほどの者とされたことを喜び、最高法院から出て行った。」と。

 ここで言われている「イエスの名」ですが、3章16節でも、「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなた方が、今見ており知っているこの人を強くしたのです。」と説明しています。まさに「イエスの名」とは、ルカ特有の言い回しで、イエスの名前の働きによってイエスが実際にそこで働かれることを示していると言えましょう。

 しかも、ここで言われている「喜び」こそ、福音宣教を実践したときの喜びではないでしょうか。

 ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように強調しておられます。

「弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは、宣教の喜びです。喜びに満ちて派遣されたところから戻って来た七十二人の弟子たちは、それを体験しました(ルカ10.17参照)。イエスは、貧しく小さな者たちに啓示をもたらしでくださったことで御父を賛美し、聖霊による喜びを体験しました同上10.21参照)。・・・この喜びは、福音が告げ知らされ、実を結び始めていることのしるしです。」(同上21項参照)

 

舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ(ヨハネ21.6参照)

  次に今日の福音ですが、復活のイエスが、三度目に弟子たちにティベリアス湖畔で、ご自分を現された感動的な出来事を伝えています。

 まず、「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』というと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出かけて行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何も取れなかった。・・・イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」と。

 実は、復活のイエスが、最初に弟子たちに現れた時です。

「あなたがたに平和があるように。」と、二度も宣言なさり、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」とご命令なさり、息を吹きかけて仰せになりました。「聖霊を受けなさい。誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、あなたがたが赦さないなら、赦されないまま残る。」(同上20.22-23参照)と。

 けれども、今日の場面では、弟子たちは、弟子になる前の彼らの生業(なりわい)つまり、漁師に戻っているではありませんか。

 そこで、イエスは、弟子たちが、イエスの宣教への派遣命令を思い起こし、弟子としての使命を遂行すべきことを自覚させるために、この奇跡を示されたのではないでしょうか。

 ちなみに、福音記者ルカは、最初の弟子たちの召命を、不思議な大漁の奇跡によって、次のように描いています。

「話し終えると、シモンに仰せになった、『沖に漕ぎ出して、網を下ろして、漁をしなさい。』シモンは答えた、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう』。そして、その通りにすると、おびただしい魚が掛かり、網が裂けそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者です。』・・・イエスは、シモンに向かって仰せになった。『恐れることはない。今から後、あなたは人を漁(すなど)ようになる』。そこで、彼らは船を陸に上げると、一切を捨ててイエスに従った。」(ルカ5.4-11参照)と。

 ですから、今日の福音に登場する弟子たちも、同じ湖での大漁の奇跡の体験によって、まさにイエスの宣教命令を思い起こすことができたのではないでしょうか。

 

わたしに従いなさい(同上21.16b参照)

 最後に、今日の福音の後半ですが、イエスのペトロとの感動的な対話を伝えています。そこで、イエスは、なんと三度も「わたしを愛しているか」と、念を押されます。

 そして、ペトロが「『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』といわれた。」

 二回目のときは、「わたしの羊の世話をしなさい。」と。また、三度目にも「わたしの羊を飼いなさい。」と、命じられます。

 そして、イエスは、最後にペトロに、「わたしに従いなさい」と言われたのです。ですから、イエスの弟子になることは、まさに「イエスに従う」ことに他なりません。ちなみに、フィリポ・カイサリア地方で、ペトロの、イエスに対する信仰告白の後(あと)、イエスは、弟子たちに次の様に宣言なさいます。

「わたしの後に従いたい者は、自分を否定し、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16.24参照)と。ちなみに、伝説ですが、西暦65年頃に、ペトロがローマで十字架刑に処せられるとき、イエスと同じでは畏れ多いので、十字架を逆(さか)さまに立ててもらったということです。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220501.html