復活節第4主日・C年(22.5.8)

「わたしは羊に永遠のいのちを与える」

 

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒言行録13.52参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、使徒言行録13章からの抜粋であります。

 ちなみに、この13章は、パウロの第一回宣教旅行の前半の活動を報告している箇所と言えましょう。

 この旅行は、パウロとその同伴者バルバナが、キプロス島に向けて聖霊によって送り出されるところから始まります。

 そして今日の場面すなわちピシディア州のアンティオキアでの安息日の会堂であります。

 そして、次の安息日には、「殆ど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神のことばは、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなた方はそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者としている。見なさい、わたしたちは、異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。

 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

 あなたが、地の果てまでも救いをもたらすために。』

 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」と。

 ここで言われている「永遠のいのち」ですが、ちなみに、ヨハネ福音書では、イエスが最後の晩餐の後(あと)、お一人で、御父に向かって祈る場面で、次のように説明されています。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17.3参照)と。

 ここでのキーワード「知る」ですが、ヨハネ文書の文脈では、親密さと一致を意味しますので、いのちの源である御言葉をとおして体験する御父との一致の体験と言えましょう。あえて、さらに説明するならば、天の国と至福の直観が、この地上での知識の完成と言える神の直観的な知識に内在することではないでしょうか。

 

小羊が彼らの牧者となり命の水の泉へと導く(黙示録7.17参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、ヨハネの黙示録の7章からの抜粋であります。

 この文書は、新約聖書で語られる唯一の黙示文学ですが、おそらく西暦90年代後半に使徒ヨハネの弟子の一人が編集したと考えられます。ちなみにその時代背景ですが、ローマ皇帝ドミティアヌスによる迫害の最中(さなか)、キリスト教徒に向けられた慰めと希望の預言といえましょう。

 つまり、天地創造によって始まった人類の救いの壮大なドラマは、世の終末と新天地の出現をもって完成します。

 ですから、迫害がますます激しくなるときに、アジア州の諸教会に対して、すぐにでも実現する世の終末と新天地の完成を告げることによって、迫害下にあるキリスト教徒を激励していると言えましょう。

 しかも、今日の箇所は、六つ目の巻物の封印が開封される場面であります。

「わたしヨハネが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群集が、白い衣(ころも)を身に着け、手にナツメヤシの枝を持ち、玉座(ぎょくざ)の前と小羊の前に立っていた。

 長老の一人がわたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。・・・

 彼らは、もはや飢えることもなく渇くこともなく、

 太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。

 玉座(ぎょくざ)の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命への水の泉へ導き、神が彼らの目から、涙をことごとくぬぐわれるからである。」と。

 すなわち、終末つまり救いの完成に与(あずか)る大群衆についての預言にほかなりません。

 ですから、キリストの贖(あがな)いの御業(みわざ)の結果が、決定的な形で実現する世の終わりに、救われた民にとって、神が文字通りに「我らとともにおられる神」となり、まさに神を目の当たりにする至福の黙示的描写と言えましょう。

 

彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない(ヨハネ10.28b参照)

 最後に今日の福音ですが、ヨハネによる福音書の10章からの抜粋であります。まず、今日の場面は、エルサレムの神殿の境内(けいだい)にあるソロモン王の回廊であります。

「そこで、ユダヤ人たちはイエスを取り囲んで言った。『一体いつまでわれわれをじらすのか。あなたがメシアなら、はっきりそう言ってくれ。』イエスは彼らにお答えになった、『わたしは話したが、あなた方は信じない。わたしが父の名によって行う業(わざ)が、私について証している。しかし、あなた方は信じない。わたしの羊でないからである。』」(同上10.24-26参照)と。

 そして今日の箇所に続きます。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは、彼らに永遠のいのちを与える。」と。

 じつは、このヨハネの文脈では、10章の11節から、イエスこそ善(よ)い羊飼いであることを、次にように強調しております。

「わたしは善い羊飼いである。善い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・わたしは善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。」(同上10.11-14参照)と。

 ここで言われている「知る」ですが、すでに第一朗読の解説で説明したように「愛する」と言い換えることもできます。

 そして、今日の箇所の締めくくりで、次の様に強調されています。

「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにしてくださったものは、すべてのものよりも偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」と。

 つまり、だれも御子の手から、また御父の手から羊を奪い取ることはできないのであります。なぜなら、御父が御子にすべてのことに及ぶ力を与えたので、イエスの持っている力は、彼の御父の力にほかならないからです。

 ちなみに、ヨハネ福音書は、イエスとニコデモとの感動的な対話で語られたことを、次にように伝えています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである。実に、神は独(ひと)り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(同上3.14-17参照)

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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