受難の主日(枝の主日)C年(22.4.10)

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 

父よ、彼らをお赦しください(ルカ23.34b参照)

    ただ今、朗読されましたルカによるイエスの受難劇は、最高法院での取り調べが終わり、全議員が立ち上がり、早速、イエスをローマ総督ピラトのもとに連行したことから始まりました。

 ですから、まず、直前の舞台である最高法院での裁判の様子を総括してみましょう。ルカは次の様に伝えています。

「民の長老会、祭司長たち、律法学者たちが集まって、イエスを彼らの最高法院に連れていった。彼らは言った、『もしお前がメシアなら、そう言ってもらいたい』。そこで、イエスは仰せになった、『たとえわたしがそう言っても、あなた方は信じまい。・・・しかし、今から後(のち)、人の子は力ある神の右に座る』。すると、彼らは言った、『では、お前は神の子か』。イエスは彼らにお答えになった、『わたしがそうだというのは、あなた方である』。彼らは言った、『これ以上、何の証言が必要であろうか。わたしたちが直接本人の口から聞いたのだから』。」(同上22.66-71参照)と。

 舞台は、再びピラトの前に戻り、ドラマの主要部分が始まります。

 そこで、まず、会衆は、「この男は我が民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」と、まさに、政治的理由で訴えます。

 そこで、今度は、ピラトがイエスに尋問します。

「『お前がユダヤ人の王なのか。』イエスはお答えになった。『それはあなたが言っていることです。』ピラトは、祭司長たちと群衆に言った。『わたしはこの男に何の罪も見いだせない。』しかし、彼らは言い張った。『この男は、ガリラヤから始めてこの都(みやこ)に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動(せんどう)しているのです。』」と。

 実は、イエスは、弟子たちにだけご自分の受難と復活を、三度目に予告なさったとき、確かに「人の子は異邦人に引き渡される」(同上18.32参照)と宣言なさいましたが、ここでは、イエスをローマ人に引き渡す時の、ユダヤ社会の指導者たちの主導的役割を強調しています。

 とにかく、ユダヤの指導者たちのイエスに対する告発は、極めて政治的性格の強い内容と言えましょう。

 つまり、宗教指導者たちは、明らかに、ローマ人によってイエスを有罪に判決してもらうために、これらの罪をでっちあげたのではないでしょうか。

 ですから、ピラトは宣言します。

「『わたしはこの男に何の罪も見いだせない。』しかし、彼らは言い張った。『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。』と。

 けれども、ピラトは、繰り返し「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。」イエスの無罪を主張します。

「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求を入れる決定を下した。」と。 

    このように、ユダヤの指導者の不正な告発と扇動された群衆の圧力によって、遂に十字架刑の判決を下したことは明らかです。

 次に 舞台は、十字架の道行と、その到達場所である「されこうべ」の丘に移ります。

「二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。

『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」と。

 ここで言われた、イエスの御父に願った「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ですが、ユダヤの祭司長、律法学者たちが知らずにこれをしたとの指摘は、十字架については、意図的で盲目的で悪意に満ちたユダヤ人指導者のせいだとする一般の考え方に反していますが、それは、まさに、キリスト教的と呼ばれるような、敵に対する慈愛あふれる取り扱いの指針と言えましょう。

 ですから、最初の殉教者ステファノも、殺害される場面で、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒言行録7.60参照)と、叫ぶことができたのではないでしょうか。

 このように、イエスに従う多くの人々が、このイエスの祈りをくりかえしつつ、残虐な不正に直面しながらも希望を見つけることができるのではないでしょうか。

 

今日わたしと一緒に楽園にいる(同上23.43b参照)

 次に、十字架の道行をイエスと共に歩み、イエスの両側で十字架に架(か)けられた二人の犯罪人のイエスに対する根本的な相異(あいこと)なる反応に、注目してみましょう。

 まず、悔い改めない犯罪人の言葉は、メシアであり救い主であるイエスをののしって挑戦し続けます。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と。

 ところが、もう一人の犯罪人は全く違った精神をもっていたので、たしなめて強調します。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰(けいばつ)を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。

 そして、言った。イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、私を思い出してください。」と。

 まず、この犯罪人は、素直に自分の罪を告白します。しかも、何よりも大切なことは、世界中の救いの根源であるイエスの名を呼んで助けを求めたことです。この犯罪人は、回心して、この十字架に掛けられている人こそ、まことのメシアで、世界の救い主であると信じたのではないでしょうか。

 ですから、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と、約束していただくことが出来たのです。

 このように、ルカは、この受難劇によって、イエスをとおして、イエスによる神の赦(ゆる)しと癒しの時が到来したことを宣言していると言えましょう。

 従って、イエスは復活させられてから、四十日にわたって弟子たちに現れ、天に上られる前に、

「また、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、仰せになった。『次の様に書き記されている、<メシアは苦しみを受け、三日目に死者のなかから復活し、その名によって罪の赦しへと導く回心が、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる>。あなたがたはこれらのことの証人である。』(同上24.48参照)と、宣言なさいました。

 これから、迎える聖週間の典礼によって、イエスによる罪の赦しと回心を共同体ぐるみで豊かに体験し、その恵みを多くの人々と分ちあうことによって、復活のイエスを告げ知らせることができるように共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

f:id:shujitsu_no_fukuin:20220408195310j:plain

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220410.html