四旬節第5主日・C年(22.4.3)

「わたしはあなたを罪に定めない」

 

選んだ民に水を飲ませる(イザヤ43.20参照)

   旧約聖書が語る神の救いの歴史において、救いの出来事の二つのクライマックスが語られますが、その第一は、イスラエルの民のエジプトの奴隷の家からの解放であり、第二は、今日(きょう)の第一朗読が伝えるバビロンの捕囚(ほしゅう)からの解放に他なりません。

 ですから、今日の第一朗読においてこれら二つの出来事が、次の様に比較されています。

 

「初めからのことを思い出すな。

 昔のことを思いめぐらすな。

 見よ、新しいことをわたしは行う。

 今や、それは芽生えている。

 ・・・

 わたしは荒れ野に道を敷き

 砂漠に大河を流れさせる。」と。

 

   つまり、「初めからのこと」や、「昔のこと」を、もはや思い出す必要がなくなるようなまさに「新しいこと」が、実現しようとしていると言う預言であります。

   ここで言われている「初めからのこと」と、さらに「昔のこと」とは、実に紀元前13世紀後半のエジプトの奴隷の家からの脱出に他なりません。

 ですから、第二イザヤにとって、バビロンでの捕囚からの解放は、それを上回る出来事だと言うのであります。

 さらに預言は、次の様に続きます。

 

「野の獣(けもの)、山犬(やまいぬ)や駝鳥(だちょう)も私をあがめる。

 荒れ野に水を、砂漠に大河(たいが)を流れさせ

 わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

 わたしはこの民をわたしのために造った。

 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」と。

 

   このくだりは、「新しいこと」が、どれほど素晴らしい出来事であるかを、動物たちまでもが、神を賛美し、また、自然界の美しい変化として描かれています。

 つまり、獣(けもの)や山犬(やまいぬ)、そして駝鳥(だちょう)までもが神を賛美し、荒れ野には道が拓(ひら)かれ、乾ききった砂漠にはなんと大河が流れ出すというのであります。

 まさに、エジプト脱出の際に、海の中に道を「通された」(かた)は、今度の新たな脱出では、砂漠に大河を「流れさせる」方に他なりません。つまり、全能の主なる神は、自然界を自由自在に使って、救いの業を実現させることができるので、海であれ砂漠であれ、どんな状況であれ、神の救いの偉大な御業(みわざ)を妨げることができないのであります。

 

何とかして死者の中から復活に達したいのです(フィリピ3.11参照)

  次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、フィリピの教会へ書き送った手紙、3章からの抜粋であります。

 しかも、その内容は、復活のイエスとの感動的出会いを体験したパウロが、自分の生き方と価値観が根本的に変えられてしまったことを、次の様に告白しています。

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失(そんしつ)とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。・・・わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と。

 ちなみに、パウロは、ローマの教会への手紙によって、洗礼の恵みの体験を、次のように宣言しています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活にもあやかれるでしょう。」(ローマ6.4-5参照)と。

 ですから、四旬節こそ、洗礼志願者とともに、洗礼の恵みの原点に立ち帰り、復活の神秘により豊かにあずかることが出来るように、まさに回心に励む恵みの時であったことを、改めて確認しましょう。

 

もう罪を犯(おか)してはならない(ヨハネ8.11c参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが伝える姦通(かんつう)の現場で捕えられた女にまつわる感動的なエピソードを伝えています。

 場面は、エルサレムの東側にある小さなオリーブ山で夜祈られ、朝早く神殿の境内に入られ、そこで群衆に教え始めたところです。

 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えた女性を、イエスのもとに引き立て、人々の真ん中に立たせます。旧約時代から定められている律法の掟(申命記22章参照)によれば、この罪は死罪に処せられます。

 そこで、なんとイエスを試し、訴える口実を得るために律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエスに尋ねます。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と。

 ところが、イエスは、即答を避け、なんと「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」というのです。

 それでも「彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」のであります。

 まさに、告発者たちは、自分たちの罪を棚に上げて、あたかも神の側に立つかのようにその女を裁こうとしたのではないでしょうか。

 ちなみに、律法が姦通者に死刑を宣告するのは、「あなたの中から罪を取り除く」(同上17.7参照)ためにほかなりません。

 ですから、他人を断罪(だんざい)するためには、まず自分からも罪を取り除く必要があります。したがって、イエスのお言葉によって自分の罪の現実に気付いた人々が、「一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

 まさにありがたい罪の赦しと温かい励ましのお言葉に他なりません。

 ですから、私たちも四旬節を締めくくるにあたって、イエスから豊かな赦しの恵みをいただけるように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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