四旬節第4主日・C年(22.3.27)

「死んでいたのに生き返り  いなくなっていたのに見つかった」

 

 

 エリコの平野で過越祭を祝った(ヨシュア記5.10参照)

   典礼暦年の一年の周期の説明の冒頭で、「過越の三日間」について、「キリストは人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するわざを、主のその過越の神秘によって成就され、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになった。このため、主の受難と復活からなる過越の聖なる三日間は、全典礼暦年の頂点として光を放っている。」(「典礼暦年と典礼歴に関する一般原則」18項参照)と、説明しています。

 ちなみに、今日の第一朗読で、エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの人々が、エリコの平野で初めて過越祭を祝ったと報告されています。

 実は、イスラエルの民は、ヘブライ人と呼ばれエジプトで紀元前14世紀頃から下層階級として虐げられ、搾取されるようになり、紀元前13世紀後半になってモーセの活躍で、エジプトの奴隷の家からようやく解放されるという救いの歴史を体験したのです。

 そして、荒れ野での40年にわたる試練の旅を終え、ようやく乳と蜜の流れる約束の地にたどり着くことができました。

 そこで、毎年春に、このエジプトからの解放を過越祭として祝うようになったのです。

 やがて、イエスの時代には、ユダヤ教の三大祭りの一つになり、ニサンの月の14日(太陽歴では3月末から4月初めころ)に小羊を屠(ほふ)って焼き、種無しパンと共に食して祝うのであります。

 ですから、イエスが十字架刑に処せられる前の晩に、弟子たちと過越祭の食事において、ミサを制定なさったことが、次の様に報告されています。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは、言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14.22-27参照)と。

 

 

父親は息子を見つけて憐れに思い走り寄って接吻した(ルカ15.20参照)

   ちなみにルカ福音記者は、まず、天の御父の限りない憐れみに倣(なら)うように、次の様に強調しています。

「あなた方は、敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(同上6.35-36参照)と。

 ですから、ルカは、今日の福音で、感動的な憐れみ深い父親の譬えによって、天の御父の限りなき憐れみを教えてくれます。

 まず、ルカは、今日の場面を次の様に報告しています。

「徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(つみびと)が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。するとファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」と。

 イエスの時代のユダヤ社会において、貧しさのために律法の掟を忠実に守ることが出来ない人々や、徴税人たちは罪人(つみびと)と呼ばれていました。

 ですから、差別され虐げられている人々が、好んでイエスの話しを聞こうとして集まっていたというのであります。

 そこで、エリート集団は、イエスについて「『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」というのです。

 そこで、イエスは、まず、「見失った羊のたとえ」を、次の様に語ります。

「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。言っておくが、このように悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(同上15.4-7参照)と。

 ですから今日のたとえにおいては、父なる神の罪人(つみびと)に対する限りなき憐れみ、また惜しみなき全く寛大な愛情と、神の側からの全く一方的な愛を軸として、そのような憐れみに対する放蕩息子の回心と、兄の兄弟愛の欠如が見事に語られています。

 しかも、三つの主題が、第一に、「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのにみつかったからだ』そして、祝宴を始めた」(24節)「『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たりまえではないか』」(32節)。第二に、「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」(18,21節)。そして、第三に、「『このお通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけ(掟)背いたことは一度もありません。』」(29節)で表されていますが、兄の弟に対する惜しみなき兄弟愛の欠如(けつじょ)は、自分の弟のことを「あなたのあの息子」(30節)という冷たい言い方で示されています。

 ちなみに、教皇フランシスコは、2015年の「憐みの特別聖年の勅書(ちょくしょ)で、「神はさまざまな形でわたしたちに手を差し伸べてきましたが、憐れみは神が人間に手を差し伸べる究極の姿です。」と、強調されております。

 つまり、現代人の希望となる神は、人間に何かを求める神ではなく、人間の罪深さや身勝手さや醜さにもかかわらず、そのみじめな姿を見て、はらわたをえぐられるような痛みを感じて、堪えられなくなって人々のもとに駆け寄ろうとする憐れみの神であられることを強調しているのではないでしょうか。

 実は、この憐れみの神の姿は、すでにシナイ山でモーセに次の様に示されています。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手からかれらを救いだし、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ、彼らを導き上る。」(出エジプト記3.7-8参照)と。

 ですから、再び教皇フランシスコは、同じ勅書のなかで、次の様に主張なさっておられます。

「神の憐れみは わたしたちに対する神の責務(せきむ)なのです。神は責任を感じています。神は、わたしたちが幸せで喜びと憂(うれ)いなく生きている姿を見たいと望んでおられるのです。」と。

 さらに、教皇フランシスは、その使徒的勧告『喜びに喜べ』において、次のように宣言しておられます。

「憐みには二つの側面があります。憐れみは、他者に与え、他者を助け、他者に仕えることですが、それだけでなく、赦し、理解することでもあります。」と。

 四旬節の後半を迎え、憐れみの心をしっかりと身に着けることができよう共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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