四旬節第3主日・C年(22.3.20)

「悔い改めなければ皆同じように滅びる」

 

わたしは降(くだ)って行き 彼らを救い出し導き上る(出エジプト3.8参照)

  今日の第一朗読で、神の山ホレブ(シナイ)においてモーセが初めて主なる神に出会ったという感動的な場面が、次の様に報告されています。

「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴(しば)の中から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると、神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物(はきもの)を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』と。

 まず、主なる神が、ご自分をモーセの先祖の神であることを強調なさっておられます。

 ところがその時、「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」というのです。つまり、神を面(めん)と向かって仰ぎ見るなら、死ぬという古くからの言い伝えによって、早速、顔を着物で隠さなければなりませんでした。

 続いて、神は、モーセに、次の様に優しく語り掛けられます。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。」と。

 実は、モーセは、エジプトで生まれたとき、王の命令でヘブライ人の男の子は、ナイル川に投げ込めというのを、母親、そして姉と、なんと王女との連携プレイによって助け出され、王女の養子となり、宮殿で育てられたのです。そして立派な大人になったときです。自分の同胞のヘブライ人が強制労働に課せられ、エジプト人によって痛みつけられているのを助けるために、エジプト人を殺害してしまい、遠いミディアンの地に逃亡したという経緯(いきさつ)があるのです。

 ところが、シナイ山で、主なる神が、モーセに向かって宣言なさいます。つまり、エジプトで奴隷として虐げられている同胞のヘブライ人を、奴隷の家から解放し、乳と蜜の流れる土地に導いてくださるというのです。

 まさに、モーセにとって主なる神は、虐げられ搾取(さくしゅ)されている人々を解放してくださる神にほかなりません。しかも、その神は虐げられている人々の「苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、その痛みを知って、降って行き、救い出し、導き上る」方なのであります。

 ですから、この解放の神のイメージは、たとえば、洗礼志願者の典礼において、次の様に示されています。

「あわれみ深い神よ、あなたはすべての人に救いの手を差し伸べ、皆が心から回心するよう呼び掛けておられます。秘跡によってあなたの子どもとされることを望む洗礼志願者を顧み、罪の重荷と悪のきずなから解放してください。」(四旬節第3主日、解放を求める祈り)

 また、ミサの中で、主の祈りを全会集が、司式司祭と共に歌ってから、司祭は「慈しみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたの憐れみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。」と、締めくくります。

 ちなみに、イスラエルの民が、毎年、春にこのエジプトの奴隷の家から解放されたことを、過越祭として祝うようになり、イエスが弟子たちと祝った過越祭の食事においてミサを制定なさったのです。

 

悔い改めなければ 皆同じように滅びる(ルカ13.5参照)

 次に今日の福音ですが、ルカが伝える悔い改めと、神の忍耐についての段落であります。

 まず、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄(いけにえ)に混ぜた」と、血による復讐の残酷な出来事に対して、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と、イエスは、忠告なさいます。

 続いて、イエスは、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と強調なさいます。

 このように、わたしたちには、常に、悔い改めが必要であることを主張なさいます。

 ちなみに、聖書で語られる悔い改めるという体験ですが、その言葉の文脈によってその内容が変わるのですが、たとえば、ヘブライ語では、道を変える、或いは引き返す、また立ち戻るという意味もあり、根本的には悪から遠ざかって神に向かうとか、生き方を変え、生活全体を新しい方向に向けるという意味で、最近では、ギリシャ語のメタノイアを「改心」改める心ではなく、「回心」つまり回す心と表記するようになりました。

 いずれにしても、回心とは、内面的な生き方の方向転換の実践といえましょう。ですから、自分中心ではなく、神中心の生き方に日々切り変えていくことではないでしょうか。

 さらに、教皇フランシスコは、回心は個人的体験に留まらず共同体レベルまで広げるべきことを、次の様に強調しておられます。

「現状維持にとどまることなく、すべての共同体が司牧的かつ宣教的な回心への道を進むために、必要な手段を用いることを期待しています。必要とされるのは、すでに『単なる管理』ではありません。・・・パウロ六世は刷新への呼び掛けを広げるようにと招き、その呼びかけは、個人のみならず教会全体に向けられているのだと力強く主張なさいました。・・・また、第二バチカン公会議は、教会の回心を、イエス・キリストに対する忠実さから生じる絶えざる自己改革に開かれていることを示しました。」(『福音の喜び』25-26参照)と。

 

木の周りを掘って肥やしをやってみます(同上13.8参照)

 次いで、イエスは、今日の福音の後半で、次の譬えを話されます。

「そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。・・・』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。』」と。

 明らかに、私たち罪人に対する神の忍耐を、強調していると言えましょう。

 ですから、使徒ペトロもその手紙に中で、つぎのように説明してくれます。

「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主が約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(一ペトロの手紙3.8-9参照)と。

 回心に励む四旬節の後半を迎えて、それぞれが実りある回心の恵みを体験できるように、共に祈りましょう。

 

 

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