年間第18主日・B年(2021.8.1)

「わたしが命のパンである」

主があなたたちに食物として与えられたパンである(出エジプト16.15参照)

   早速、今日の第1朗読ですが、旧約聖書の二番目の書物、出エジプト記16章からの抜粋であります。この書物は、イスラエル人がエジプトで奴隷として重労働に課せられ虐げられていた状態から、神がモーセを解放者としてお選びになり、エジプトから脱出し、シナイ半島の荒れ野(砂漠)に逃げ込み、神の山シナイ山を目指して厳しい荒れ野の旅とシナイ山に到達してからの出来事を語る壮大な叙事詩と言えましょう。

 それは、モーセの時代に、まず口伝(口から口へと語りつぐ)として家庭で語り継がれました。それが、やがて正式な典礼として祝われるようになったと言えましょう。

 では、今日の箇所ですが、エジプトを脱出して、シェルの荒れ野(砂漠)に群衆を導き、彼らは三日間、全く水のない荒れ野を進み、今日の場面である野営地のエリムにたどり着きます。そして、群衆は、モーセとアロンに向かって、次のようにあからさまに、不平を述べ立てます。

「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだほうがましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」と。

 このように、会衆は、モーセとアロンに面と向かって不平を叫んだのですが、それを、神ご自身がお聞きになったので、早速、モーセに語られます。

「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

 砂漠で飢え渇いているイスラエルの民を、神自らが養うことによって、イスラエルの群衆は、自分たちこそ選ばれた神の民であることを自覚するようになるというのです。

 因みに、モーセの最後の説教集とも言える申命記には、なぜ神がイスラエル人を神の民としてお選びになったのか、そのわけを次のように宣言しています。

「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手(おんて)をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記7.6b-8参照)と。

 

古い人を脱ぎ捨て心の底から新たにされて(エフェソ4.23参照)

   次に、今日の第2朗読ですが、使徒パウロが、キリスト者としての新しい生き方の基本について、簡潔に説明しているエフェソの教会宛てにしたためた手紙4章からの抜粋であります。そこで、パウロは、単刀直入に次のように勧告しています。

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなさい。」と。

 恐らく、キリスト教に改宗する前の異邦人的な古い生き方をかなぐり捨ててキリストに結ばれた新しい生き方を実践するよう励ましています。実は、このキリストに結ばれた新しい生き方については、使徒パウロが、ローマの信徒宛てに、次のような書簡を送っています。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたは、この世に倣(なら)ってはいけません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心(みこころ)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12.1-2参照)と。

 

わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく わたしを信じる者は決して渇くことがない(ヨハネ6.35c参照)

 最後に今日の福音ですが、先週に続いてヨハネによる福音書の6章の24節から35節までの抜粋であります。

 今日の箇所は、パンのしるしが行われた翌日、また、大勢の群衆がイエスを慕って集まって来た場面が展開されます。

 そこで、まず、群衆とイエスとの対話が始まります。まず、人々は、イエスに親しみを込めて尋ねます。『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。』と。

 このさりげない問いかけですが、「いつ、この地上においでになられたのですか」という一歩突っ込んだ質問にも受けとめることが可能です。つまり、群衆は、イエスが一体だれであるかを知りたがっていたのではないでしょうか。

 けれども、イエスは、むしろ彼らの本心を見抜かれて、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言い返されます。つまり、群衆は、イエスがどなたであるかに気づくことなく、まさにこの世的な次元に留まっていることを指摘なさいます。ですから、突然、次のような勧告を投げかけられます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちにいたる食べ物のために働きなさい。」と。

 かつて、モーセの時代に荒れ野で飢えている民に、神からマンナが与えられましたが、必要な分だけ集めなさいという神の忠告を無視して、翌朝(よくあさ)まで残しておいたところ、虫がついて臭くなりました。

 すなわち、イエスが与えたい食べ物とは、神の言葉、つまり神の教えと、神の知恵であることを分かって欲しかったのではないですか。

 とにかく、そこで、人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいのでしょうか」と。ここで、言われている「神の業」とは、「神が求める働き」にほかなりません。さらに、群衆は、イエスにしるしを要求します。それに対して、イエスはお答えになります。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・・わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と。

 今日もまた、このミサにおいてイエスの御体と御血をいただきます。それは、まさに、永遠のいのちの糧なので、決して飢えることも渇くこともないはずです。ですから、この朽ちることのない永遠のいのちの糧によって養われて、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場さらに地域社会においてこの一週間、また、愛の実践に励むことができるよう共に祈りましょう。

 

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