年間第17主日・B年(2021.7.25)

「感謝の祈りを唱えてから分け与えられた」

人々に与えて食べさせなさい(列王記4.42参照)

   早速、今日の第1朗読ですが、列王記下4章からの抜粋です。この列王記は、上下と二巻に分けられていますが、旧約聖書にある歴史書に属する歴代の王たちの歴史を語る書物と言えましょう。

 ですから、この列王記は、二代目の王ダビデの晩年における宮廷内の争いに始まり、三代目の王ソロモンの即位と繁栄、彼の死後の王国の分裂、北王国の滅亡にいたるまでの両国の王たち、さらに、バビロニア軍によるエルサレム陥落までの南王国ユダの王たちについて語っています。

 特に、今日の朗読箇所は、その時代の預言者エリヤとその弟子エリシャの活躍を伝える列王記下の4章の最後の箇所にほかなりません。

 時代は、ギルガルの地が飢饉(ききん)に見舞われていたときです。

「一人の男がバアル・シャリシャから初物(はつもの)のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人エリシャのもとに持って来た。神の人は、『人々に与えて食べさせなさい』と命じたが、召し使いは、『どうしてこれを百人の人々に分け与えることが出来ましょう』と答えた。エリシャは再び命じた。『人々に与えてたべさせなさい。主は言われる。<彼らは食べきれず残す。>』

 この感動的なエピソードは、もともとは、奇跡物語としてではなく、エリシャの寛大さを称賛する物語だったと考えられますが、43節と44節bが書き加えられることによって、まさに「神の言葉」の力強さを示す奇跡物語に変えられたのではないでしょうか。

 

平和のきずなで結ばれて霊による一致を保つように努めなさい(エフェソ4.3参照)

  次に、今日の第2朗読ですが、使徒パウロが、ローマにおける最初の獄中生活の期間、すなわち紀元61年から63年にかけて、コロサイとその近くのラオディキアとヒエラポリスの異邦人改宗者に宛ててしたためた書簡と考えられます。

 とにかく、当時の改宗者であるキリスト者がおかれていた社会において、まさに差別の原型であるユダヤ人と異邦人という対立の図式を越え、その図式を受け継いだキリスト教のある特定教会の独善を超越して、和解した平和と一致の絆で結ばれた新しい人間共同体を強調していると言えましょう。

 ですから、次のような具体的な勧告をしたためています。

「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」と。

 さらに、一致の原点を、つぎのように強調しています。

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」と。

 

イエスはパンを取り感謝の祈りを唱えてから分け与えられた(ヨハネ6.11参照)

   最後に今日の福音ですが、先週は、マルコが伝えるパンの奇跡物語の舞台設定でしたが、今日は、福音記者ヨハネが、伝える同じパンの奇跡(しるし)物語ですが、ヨハネは、他の福音書と違って、この奇跡を、明らかにミサに関連させていると言えましょう。

 では、少し詳しく振り返ってみましょう。

 まず舞台設定ですが、イエスの通常活躍なさった地域は、ガリラヤ湖(ティベリアス湖)の北にある町カファルナウムが中心でしたが、今日の場面は、ユダヤ人からすれば異邦人の領域である湖の東側ということです。

 とにかく、「大勢の群衆がイエスの後を追った。」と言うのです。なぜなら、彼らは「イエスが病人たちになさったしるし(奇跡)を見たからである。」と、ヨハネは説明しています。

 そして、「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。」のです。

 ちなみに、聖書における「山」とは、まさに神との出会いの場と言う意味があり、例えばモーセが神と最初に出会ったのは、シナイ山でした。また、マタイによれば、イエスが群集に向かって長い説教をなさったのも、山の上でした。ですからその説教を「山上の説教」と名付けています。

 とにかく、イエスの後を追って集まって来た群衆に向かって、イエスは語り始めます。ところで、ユダヤ人の最も古い過越祭が近づいていたのです。ヨハネは、イエスの活動を、祭りと関連させていますが、この奇跡も過越祭が近づいた時で、また、イエスが最後の晩餐を、過越祭の前日に弟子たちと祝い、その席上でのミサの制定と明らかに関連づけていると言えましょう。

 ところで、パンの奇跡の舞台設定は、イエスが「大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」と、ヨハネは念を押しています。

 まず、この場面の登場人物として、弟子のフィリポとアンドレそして、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にもたたないでしょう。」と、報告します。

 そこで、ヨハネは、ミサに関連する言葉を挿入します。つまり、「イエスは感謝の祈りを唱えて」と、明らかに感謝の祭儀で使われる言い回しにほかなりません。そして、最後の晩餐の時のように、「人々に分け与えられた。」のです。しかも、弟子たちに命じられます。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑(くず)を集めなさい。」と。ここで言われている「パンの屑」ですが、ホスチアを表す専門用語です。また、「集める」は、ミサの前半の「ことばの典礼」を意味する言葉と言えましょう。

 とにかく、ヨハネは、このパンの奇跡を、ミサを説明するための準備にしていることは、きわめて明らかです。

 つまり、このパンの奇跡を、ヨハネは、最後の晩餐の席上で制定されたミサを思い起こさせる出来事として受け止めているのではないでしょうか。

 ちなみに、マルコは、最後の晩餐が過越祭の食事であり、そこで最初のミサがささげられたことを、次のように報告しています。          

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くに人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14.22-23参照)と。

 今日もまたキリストの御体と御血によって養われるわたしたちが、このミサによって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

 

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