年間第16主日・B年(2021.7.18)

「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」

わたしはダビデのために正しい若枝を起こす(エレミヤ23.5b参照)

   今日の第一朗読は、いちばん長い預言書エレミヤ書の23章からの抜粋であります。

 この預言書を編集した預言者エレミヤは、南のユダ王国で、紀元前597年から571年にかけて、まさに騒乱の時代に活躍した偉大な預言者と言えましょう。とにかく、自らの預言者としての召命を全うするために、多くの困難を体験せざるを得ませんでした。そしてエルサレムで殺されそうになるまで迫害され、ユダヤ教の伝統によると、エジプトで石打によって殺害されたとのことです。

 ですから、今日の朗読箇所では、時の政治的指導者たちが、民を滅ぼしていることを、神が嘆かれておられることを次のように強調しています。

「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を養う牧者たちについて、こう言われる。『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる。

 このように、旧約聖書の伝統においては、主なる神が、まず、牧者であり(詩編23.1参照)、人間は羊であり、さらに政治的指導者たちも牧者なのであります。

 ですから、時の王たちが、その民を虐げ、搾取(さくしゅ)している現状を、牧者である神が嘆かれ、神ご自身が「群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせ、彼らを養う牧者をわたしは立てる。」と、宣言なさいます。

 さらに、神は「見よ、このような日が来る、わたしはダビデのために正しい若枝(わかえだ)を起こす。・・・彼の代(よ)にユダは救われ イスラエルは安らかに住む。

 彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」と。

 まさに、メシア預言つまり、ダビデ家から理想的な王としてのメシアが誕生するというのであります。

 このように、神を牧者として描くのは、特に先ほど唱えた答唱詩編において次のように最高潮に達します。(「聖書と典礼」では、24編1節が割愛されていますが、別な訳を紹介します。)

「主はわたしの羊飼い、わたしは何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は尊く、わたしを正しい道に導かれる。」と。

 この冒頭句は、とても美しく、羊が自分を優しく導いてくれる牧者に向かって、全面的な信頼を告白しています。とにかく、わたしにどんなことが起ころうとも、わたしは神の愛の豊かさに満たされ、何ひとつ不足することがない、という宣言なのです。

 このように、神である羊飼いが、優しく羊であるわたしたちを導き、豊かな牧場で養ってくださいます。ここで言われている「青草」ですが、ヘブライ語では、芽を出したばかりの若草を指します。とにかく、砂漠地帯の渇き切った大地は、ひとたび雨が降るとそれまで眠っていた種が一斉に芽を出し、あたり一帯はみずみずしい野原に代わります。まさに神の偉大な力の表れです。

 そして、神は、わたしたちを「憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」のです。つまり、わたしの魂を、いのちの源である神に立ち帰らせて、いのちをよみがえらせてくださると言うのであります。

 

キリストこそわたしたちの平和(エフェソ2.14参照)

   次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、エフェソの教会へしたためた手紙の2章からの抜粋であります。

 実は、ヨハネによる福音書によれば、イエスは、最後の晩餐の席上、弟子たちに、平和を次のような方法で与えることを約束なさいました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14.27参照)と。

 ですから、使徒パウロが、このイエス独自の平和の与え方について、今日の箇所で見事に宣言しています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。・・・それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」と。

 以前、韓国の教会を訪問した際、地元の信者さんたちと共に祈り、体験を分かち合うひと時が与えられました。そこで、年配のご婦人(日本が韓国を36年にわたって植民地として虐げた時代の体験者)が、「今日(きょう)、日本人の神父さんと一緒に祈ることができたので、わたしの心にあった敵意という隔ての壁をイエスが取り壊してくれました。神に感謝。」と。

 

飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ(マルコ6.34参照)

   最後に、今日の福音ですが、西暦65年から70年代に福音記者マルコによって初めて福音書という文学形式に編集された6章からの抜粋であります。

 ここで、マルコは、パンの奇跡が語られる直前の状況を、次のように具体的に伝えています。

「そのとき、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことを残らず報告した。・・・そこで、一同は船に乗って、自分たちだけで人里(ひとざと)離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけていくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」と。

   イエスの弟子たちに対するきめ細やかな思いやりも、なんとイエスからの具体的な助けを必要としている群衆が「すべての町からそこへ一斉に駆け付け、彼らより先に着いた。」ことを優先させる結果となったのであります。

 まず、群衆を御覧になったときの、イエスの心境ですが、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、まさに内臓で感じた憐れみ深い感情にほかなりません。そして、この特別な感情こそが、五千人以上の群衆が満腹できるだけのパンを弟子たちに配らせたのであります。

 イエスからの具体的な助けを必要としている苦しみ、悩み、我慢の限界に来ている人々が、今日(こんにち)、まさに地球規模で増え続けている中、今週もまたこのミサによって派遣されるわたしたちもイエスと共に、愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

 

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