洗礼志願者への手紙(横島健二神父様)

『洗礼志願者への手紙』 横島健二神父様(仙台教区司祭)

 

 洗礼を受けるということは、神と約束を交わすことです。志願式を受けたときよりも、もっともっと慎重であっていただきたいと願わずにはいられません。

 慎重であるために、少なくとも、これだけは心にとめておいて欲しいと思うことを、志願式に立ちあった者の一人として述べさせていただきます。

  

もう一度考えて欲しいこと

 一つの真理発見に至る道程の始まりには、いつも「これでいいのか」とか「どうしてなのか」といった疑問があるのではないでしょうか。

「なぜりんごは落ちたんだろう」という疑問に「虫食いりんごだから」との答えで納得してしまったら、ニュートンの力学は生まれませんでした。

 神への信仰と祈りによって、無病、息災、長寿の報果に浴し得るとの信仰に疑念を差しはさむことができなかったら、モーゼに端を発したユダヤ教も、そしておそらくは今あるキリスト教も存在しなかったでしょう。

 絶対に正しいと信じる信仰、信じ込みが、どれほど多くの人々を独りよがりの誤りに陥れるかの例を、誰もが嫌というほど見ているはずです。

 疑いを通してしか真理に至れないのが人間の宿命ならば、あえて徹底的に疑ってみてもいいのではないでしょうか。その結果が、キリスト教を棄てることになったとしても、です。

「キリストは、人がご自分よりも真理の方を選ぶのがお好きです」と言った人がいましたが、本当だと思います。

 

 懸念するのは(飽くまでも懸念の域を出るものではありませんが)、万民に認められ、受け容れられる普遍(カトリック=「すべての所で、あらゆる時に、万人により信じられていること)」的な教えに引かれて、キリスト教を受け容れ、受洗しようとしておられるのではないかということです。

 イエスの語ったことが、もし本当に神からのものであるとしたら、それはすべての人のためであるはずですし、その意味では普遍的なものでしょう。

 しかし、わざわざ神が遣わし、人間には決して語り得ない人間の想像を超える「神の言葉」を語ったという点から見れば、その教えは他に類を見ない、極めて特異なものであるはずです。

 そうでなければ、どうして神からのものと言えるでしょう。孔子・孟子も語っていることを繰り返すためにキリストを世に送ったのなら、神はじつに無駄なことをしたことになります。人間にはできないことをなさり、語れないことを語るからこそ、神からのものと言えるのではないでしょうか。

 イエス自身が述べているように「アブラハム以前から存在し、神から遣わされた、神と一つである者」と言っていることが本当であるなら、そして実際に、人間には決して語ることのできない「神の言葉」を語ったとしたら、その教えが、万人から共感を呼ぶ普遍的なものではあり得ないような気がするのです。

  他者のために己を顧みない愛。真理、正義のために死をも厭わない十字架の精神、来世における朽ちることのない生命についての揺ぎない復活信仰。そのような教えであるなら、何もキリスト教に学ぶまでもなく、至る所にあります。むしろ、そのような教えを説かない宗教を見つける方が難しいかもしれません。

 そのような崇高な教えに価値がないなどと言っているのではありません。ただ、それらの教えを受け容れたからといって、神にしか語れないキリスト教独自の教えを信じたことにはならないでしょう、ということです。

 キリスト教は自らを、啓示宗教であると主張します。ですから、どんなに崇高な教えが説かれていようと、神しか語ることのできない、神以外のものからであり得ないものをはっきりと示される以前に、信じて受け容れるようなことはなさらない方が良いのだと思います。それは、最大の詐欺に引っかかる危険を敢えて冒すことになるでしょうから。

 キリスト教が主張する神からの永遠の真理が、ばくちのように賭けで手に入るとは思えません。「信仰」に賭けるべきか、「無信仰」に賭けるべきか。はっきりとした確信が持てるようになるまでは、いずれにも賭けないことこそ大切だと思うのです。

 

信じて欲しいこと

 本当にこの宇宙万物を造った神さまがいるとしたら、その神さまはきっと、力あるお方に相違ありません。そのような神が存在するのかしないのか、本当のところは誰にもわかりません。しかし、もしもそのような神がおられるとしたら、この世と一人ひとりの心を実際に支配できるお方であるに違いありません。

 ひょっとするといるかもしれない神さまの力を信頼することができるのでしたら、その神を選ぶに際して人間の側から大切なことは、選ぶ決断をしないことだと思うのです。

 人間の決断など、余り当てにできるものではありません。別の決断によってくつがえされる危険をいつもはらんでいます。

 だいたい「選択」とか、「決断」などというおおげさな言葉は、どちらかといえば、どっちを選んでもたいして違いがないことを、意志の力を借りてどっちかに決める時に使うような気がします。「ラーメンにしようか、タンメンにしようか」「車で行こうか、歩いて行こうか」などと迷った時のような・・・・・・。

 この世に生まれるという重大事を誰か、決断によって受け容れた人がいるでしょうか。母親をして、わが子を助け出すために火の中に飛び込ませるのは、思案した挙げ句の選択なのでしょうか。

 一人の人と生涯を共にしたいという気持ちを「よし、結婚したくなるぞ」と自分の意志で起こして結ばれた人など、果たしているのでしょうか。

 人間にとって真に重大なことが、自分の意志の決定によって進められることなど、まず無いといっていいような気がします。

 

 すべてを造り、すべてを支配する神が本当にいるなら、一人ひとりに何をさせるかを決めるのは、神の側なのだろうと思います。天地創造の計画を計画通りに進める力がある神ならば、嫌でも応でもそうせざるを得ないところに一人ひとりを追い込んででも、ご自分の意志を一つひとつ実現してゆく神なのでしょう。

 人間の方でいくら逃げまわっても、必ずや追いつき、捉え、ご自分の思うままに人を動かす、名実ともに世を支配する主なる神であるはずです。

 聖書は繰り返し、そのような仕方での力強い神支配のことを教えています。ヨナ書は、嫌がるヨナを魚の腹を三日三晩借りてまで無理やりニニベへ送り込み、人々に回心の必要を告げさせる、強引とも見える神のやり方を説きます。弟子たちの実感も、自分たちが選んだのではない、逆に、「キリストにとらえられた」ということだったようです。

 偉大なことは、人間の選択や決断ではない。「主がおん目をとめ・・・全能のお方が私になされたこと」のみが、真に偉大なただ一つのことである。他者のため、身を焼かれるために与えても、人間の決断によるものであるなら何の益もない。

「あなたがたが選んだのではなく、私があなたがたを選んだ」

 聖書は一貫して、神の強制的とも言える主導性について語っています。

 聖書が教えている「信仰」とは、そのような神の強制に身を委ねる姿勢のことではないでしょうか。神の命じるところなら、自分の子を殺すことすら辞さない信仰の父アブラハムの姿勢こそ、ユダヤ・キリスト教が追い求め続けた信仰なのではないでしょうか。

 キリストが十字架の上での死を受け容れた理由も、「主が望むならば」の一点だったようです。

 

 アシジのフランシスコは、ある日「教会を建て直さなければいけない」という衝動に駆られました。彼は、崩れ落ちた教会の壁の修復に取りかかりました。その衝動は、いつしか、全教会を内側から建て直すことへと変えられていました。

 もしも、ばからしいこととしてその衝動に従わず、レンガ積みをはじめなかったら、教会刷新のあの大事業は、彼によって実現することはなかっただろうと思います。

 肝心なことは、このような衝動は、人間の判断力とか意志力・努力とは関係なく、本人自身もあずかり知らない力によって引き起こされるということです。

 このような仕方で一人ひとりをあえて衝動へと駆り立て、導いておられるのは神であると信じられるのでしたら、大切なことは、自分の決断で何かをすることをやめることです。

 本当に神さまがおいでになり、あなたを洗礼に導きたいとお考えでしたら、洗礼を受けないではいられないところへと、神の力であなたを追い込んでくださるでしょう。追い込まれないなら、受けない方がいいのです。

 あなたを仏教徒として使おうとしているか、それともキリスト教徒として働いてもらおうと思っているか、はたまた無神論者としてか。それは使う側の神が決めることであって、人間の側ではないのです。

 

「神父さんが『洗礼を受けてもいいですよ』といつ言ってくれるかと、じっと待っていました」という話を聞くことがあります。

 でも。神が一人の人をどのように導くかについて、神父はほとんんど何も知らないのです。神父にできることと言えば、受洗への望みが神の力に引きずられてのものであるかどうか確かめてみるために、足を引っ張ってみるぐらいが関の山というところでしょうか。

 洗礼とは、一人の人が神を選んだことの「しるし」ではなく、神の方で一人ひとりをキリストの弟子としてお選びになったことの「しるし」です。神父は神の選びを先取りしたり、妨げたりすることはできないのです。

 

 こんな経験をお持ちではないでしょうか。自分では最良の道であると思って飛びつく。後になって早まったと後悔する。神のなさることを邪魔立てするのは、いつも人間のこの知的な火遊びではないでしょうか。思索だとか、犠牲心だとか、善意だとか、人の目には偉大に見える人間的な努力・業によってではないでしょうか。

 神のなさることのみ偉大であり、神は望む通りに人を動かすことのできるお方であると信じられるのでしたら、自分の目にはどんなに素晴らしいことと見えたとしても、手を出さぬ方が賢明だろうと思うのです。神の人を動かす強制力に抵抗できなくなるまで、じっと待ち続ける方がいいのだろうと思います。

 

洗礼を受ける時

 キリスト教の教えを学ばずにいられなかったら学べばよい。否定しても否定しても否定しきれず、疑っても疑っても疑い切れなくなって、もう、どうにも、イエスに従って生きる以外の自分が考えられなくなってしまう、そんなときがきたら洗礼を受ければよい。

 キリストと共に十字架に釘付けされる生活とは、そのような身動きの取れないところで生きる生き方のことを指しているのかも知れません。

 とにもかくにも、身動きできないところへ追い込むのは、もしも本当に神がいるなら神自身がなさることで、決してあなたではないことをお忘れにならないでいただきたいのです。

 いつまでも決心がつかないことで焦ったり、親切に教えてくれる神父さんに申し訳ないからといった心配をすることなど少しもないのです。

 神様は、本当においでになるのかもしれません。神さまについて学んだ以上は、いらっしゃるかもしれない神さまの絶対的支配力を信じて、その強制に身を委ねるこれからの人生であってほしいと願わずにいられません。

 その結果が、洗礼に導かれるものであろうと、導かれないものであろうとも、です。

 (『福音宣教』2001年3月号より)

 

 

 

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※横島神父様を偲んで、過去の記事を転載しました。

聖書講座の先輩が「ぜひ読んでみて」と、コピーして下さった大切な記事です。

洗礼志願者の方々、多くの方々に読んでいただきたいです。

私は洗礼を受けてからも、繰り返し読んでいます。(管理人ひつじsan)