年間第15主日・B年(2021.7.11)  

 『十二人は出かけて行って宣教した』

 行って預言せよ(アモス7.8参照)

   今日の第一朗読は、旧約聖書にあるアモス書の7章からの抜粋であります。

このアモス書ですが、預言者アモスが、紀元前783年から740年にかけて、南のユダ王国で活躍したときに書き残したと考えられます。実は、アモスは、王の宮殿で仕えた預言者、あるいは、預言者集団の一員でもなく、王国南部で、今日の朗読箇所が、伝えているように「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。」ったのが、ある日突然、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを召し出し、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』」と、まさに直接、神から預言者としての召命を受けたのであります。

とにかく彼は、特に、形骸化(けいがいか)した宗教的祭儀よりも、まず、社会正義を、着実に実現させることの大切さを、次のように力説しました。

「わたしは、あなたがたの祭りを憎み退ける。

 祭りの献げ物の香りも喜ばない。

 ・・・

 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

 竪琴(たてごと)の音(ね)もわたしは聞かない。

 正義を洪水(こうずい)のように

 恵みの業(わざ)を大河のように

   尽きることなく流れさせよ」(同上21-24参照)と。

 ところで、預言職についてですが、歴史的刷新をめざした第二バチカン公会議の『教会憲章』において、信徒の預言職について次のように宣言しています。

「生活のあかしと言葉の力をもって、父の国を告げ知らせた偉大な預言者キリストは、栄光を完全に表す時がくるまで、自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、また信徒を通して、ご自分の預言職を果たす。

 そのため、キリストは信徒を証人として立て、信仰の感覚(聖霊に支えられている真理への感覚)とことばの恵みを授けて、福音の力が家庭と社会の日常生活の中に輝きわたるようにした。」(『教会憲章』35項参照)と。

 

頭であるキリストのもとに一つにまとめられる(エフェソ1.10参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、ローマにおける最初の獄中生活の期間、すなわち西暦61年から63年にかけて、異邦人改宗者の間に起こったキリスト、および教会に関する問題についてラオディキアとヒエラポリスのキリスト者に宛てられた手紙の1章からの抜粋で、次のようにキリスト者の召命について、いとも荘厳に書き送っています。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子(おんこ)によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」と。

 さらに、神の救いの完成を、つぎのように総括しています。

「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業(わざ)が完成され、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるもの地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」と。

 さらに、次のように強調しています。

「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印(しょういん)を押されたのです。」と。

 

出掛けて行って宣教した(マルコ6.12参照)

  最後に今日の福音ですが、マルコ福音記者が伝えるイエスが、十二使徒たちを宣教に遣わす次のような場面であります。

 「イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた。

 その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金(かね)を持たず、ただ履物(はきもの)ははくように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」と。

 まず、ここで言われている「十ニ人」とは、マルコの文脈では、すでに3章で十二使徒が任命されたことを、確認しなければなりません。

 すなわち、「イエスは山に登り、ご自分の望む人たちを呼び寄せられた。彼らはイエスのもとに来た。このように、イエスは十二人を選び、使徒とお呼びになった。それは、この十二人がご自分と共にいるためであり、また悪霊を追い出す権能を授けて宣教に遣わすためであった。」(同上3.13-15参照)と。

 まず、「イエスは山に登り」とありますが、これは、イエスが神から十二人を示された権威を伝えていると言えましょう。

 そして、イエスが、彼らを選んだのは、「イエスと共にいるため」、「悪霊を追い出す権能を授けるため」そして「宣教に遣わすため」に他なりません。つまり、イエスご自身の使命に与(あずか)るためなのです。

 ですから、実際に、彼らを派遣するに当たっての具体的な指示は、彼らの使命遂行のための実践的なアドバイスなのです。

 しかも、「二人ずつ組みにして遣わされた」のは、宣教活動は、本来的に単独行動ではなく、いつも共同体的な支え合いが必要なのです。

 そして、イエスご自身の権威にのみ全面的に信頼し、他の何物(なにもの)にも、決して頼らないことではないでしょか。

 この宣教者の基本的な心構えは、結局、自分の自我から解放されて、イエスに全面的に信頼して出かけて行くというまさに宣教者の本来的な心構えと言えましょう。

 ちなみに、教会のまさに歴史的刷新を目指した第二バチカン公会議は、教会の本来の使命である福音宣教に、全員が参加すべきことを再確認しました。ですから、司祭、修道者だけでなく、信徒も福音宣教のために養成されなければならないのです。(『宣教活動教令』26項参照)

 また、近年、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように強調しておられます。

「洗礼を受け、神の民となったすべてのメンバーは、宣教する弟子となりました。・・・つまり、洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。・・・とにかく福音宣教に関わることをためらわないでください。・・・イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったからには、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・ですから、当然のことながらわたしたちは皆、福音宣教者として絶えず成長するように呼ばれています。」(同上120-121参照)と。

 今週もまた派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音宣教者の使命を実践できるように共に祈りましょう。

 

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