年間第14主日・B年(2021.7.4)

「人々の不信仰に驚かれた」

強情な人々のもとにわたしはあなたを遣わす(エゼキエル2.4参照)

   まず、初めに今日の第一朗読のエゼキエル書の時代背景を、振り返って見ましょう。

 実は、預言者エゼキエルが、活躍したのは、王国時代が始まって、三代目のソロモン王が王位を退いた紀元前931年、なんと王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。

 さらに、ユダ王国の都エルサレムが、新バビロニア帝国の軍隊によって紀元前587年に破壊され、三か月後には降伏せざるをえませんでした。しかも当時の占領政策によって、負けた国の王を初め主(おも)だった人たちを、戦勝国に強制移住させたのです。まさに、捕囚時代の始まりに他なりません。この強制移住は、三回にわたって実施され、其の第一回目の捕囚民の中に、エゼキエルがおり、捕囚地で活躍した唯一の預言者でした。

 そこで、エルサレムから千キロ以上離れた首都バビロンの近くの運河のほとりで、エゼキエルは次のような神秘体験をします。

「そのとき天が開かれ、わたしは神の御姿(おんすがた)を視(み)た。・・・カルディア人の地ケベル川のほとりで、主のことばが祭司ブジの子エゼキエルに下り、また、主の御手(おんて)が彼の上に臨んだ。」(同上1.1-3参照)と。

 そこで、エゼキエルは、次のような神のことばを聞きました。

「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆(はんぎゃく)の民に遣わす。・・・彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」と。

 まさに罪のため、遠い異国に強制移住させられたイスラエルの民は、そこでも王に代わって民を指導する預言者が必要だったのです。

 ですから、今日、新しい神の民である教会も、キリストの預言職を現代世界の只中で実践しなければならないことは、歴史的刷新の出来事であった第二バチカン公会議は、次のように宣言しています。

「神の聖なる民は、キリストの果たした預言者としての任務にも与(あずか)る。特に信仰と愛の実践によってキリストについての生きたあかしを立て、賛美の供え物、すなわち、神の名をたたえる唇の果実を神にささげることによって果たす。(ヘブライ13.15参照)」と。

 つまり、すべてのキリスト者は、生き方と言葉とによって福音をのべ伝えることによって、キリストの預言職を実践する召命をいただいているのです。

 

わたしは弱いときにこそ強いからです(ニコリント12.10参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、分裂(ぶんれつ)の危機にさらされていたコリントの教会へ書き送った第二の手紙の抜粋であります。

 使徒パウロは、自分の体験をあからさまにつぎのように分かち合ってくれます。

「思い上がらないように、わたしをいためつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。・・・それゆえ、わたしは弱さ、侮辱(ぶじょく)、窮乏(きゅうぼう)、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と。

 また、使徒パウロは、次のような体験をも、第一の手紙にしたためています。

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日(こんにち)のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他(た)のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、わたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(一コリント15.10参照)と。

 

人々の不信仰に驚かれた(マルコ6.6参照)

  最後に今日の福音ですが、マルコによる福音書の6章1節から6節までの抜粋であります。

 そこで、デビューして故郷のナザレに戻られたイエスは、安息日に会堂で教え始められたというのであります。

 その時の会堂でのイエスの体験が、今日のテーマとなっています。マルコは、次のように報告しています。

 「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵とその手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と。イエスの同郷人たちの、最初の反応は、まさに単純で正直な驚きでした。

 ところが、彼らが我に返って言ったのです。「『この人は、大工ではないのか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。」のです。

 つまり、彼らは、自分たちの先入観という罠(わな)にかかってしまったと言えましょう。ですから、結果的にイエスを拒否し、そのお言葉に素直に耳を傾けることができなかったのです。その彼らの取った態度こそが、「イエスにつまずいた」ことにほかなりません。

 ですから、わたしたちも気をつけなければイエスのお言葉に躓いてしまって、結果的にイエスを受け入れないという罠にかかってしまう危険があるのではないでしょうか。

 じつは、使徒の頭(かしら)であったペトロもイエスにつまずいてしまったという苦(にが)い体験があります。

 それは、異教徒の地フィリポ・カイザリア地方で、ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、見事に信仰告白をしてから、今度は、「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして行き、いさめ始めた。「主よ、めっそうもない。そんなことがあなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向き、ペトロに言った。『サタン、引き下がれ。お前はわたしのつまずきだ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ。』」(同上16.21-23参照)と。

 私たちも、日々、自分を全面的に否定し、神に焦点を合わせて、イエスのお言葉に素直に聞き従うことによって、イエスを人々に証し出来るように共に祈りましょう。

 

 

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