「あなたの信仰があなたを救った」
生かすためにこそ神は万物を造られた(知恵1.14参照)
初めに、今日の第一朗読ですが、智恵文学に属する『知恵の書』の1章と2章からの抜粋であります。
この知恵の書は、紀元前1世紀頃、北アフリカにある学問都市アレクサンドリアに住んでいたギリシャ語を話すユダヤ人によって、異教文化にさらされている同胞を、慰め、勇気づけ将来と来世に対する希望を持つことができるように書き綴った文学と言えましょう。
ですから、次のように励ましています。
「神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られたものは価値がある。」と。
さらに、人間の尊さについて、創世記に基づいて次のように断言しています。
「神は人間を不滅(ふめつ)な者として創造し、
ご自分の本性の似姿として造られた。
悪魔の妬みによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」と。
ですから、その11章では、神の人間に対する愛と憐れみを、次のように告白しています。
「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようと、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。・・・
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。」(同上11.23-26参照)と。
娘は救われ生きるでしょう(マルコ5.22d参照)
次に、今日の福音ですが、マルコ福音書の5章21節から43節までの抜粋ですが、実は、二つの奇跡が組み合わされている珍しい段落ですので、まず、マルコ福音記者のそのように編集した意図を確認すべきではないでしょうか。
つまり、最初の奇跡つまり、会堂長ヤイロが死の床に臥(ふ)せっている「幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手をおいてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、愛娘(まなむすめ)を思いやる父親の愛情あふれる願いが、突然、なんと出血病の女性の登場によって、中断されます。その時の父親の思いを想像することができます。
とにかく、この会堂長は、イエスに対するゆるぎない信仰をすでに持っていたことは、「イエスの足もとにひれ伏して、『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、きっと娘は救われ、生きるでしょう。』」と、懇願したひたむきさに示されていると言えましょう。ちなみに、「助かり」と訳されているギリシャ語は、もともは「救われる」という言葉であります。
あなたの信仰があなたを救った(同上5.24参照)
ですから、マルコが、出血病で苦しんでいる女性を、唐突に登場させ、彼女のイエスに対するひたむきな信仰を示すことによって、この会堂長の信仰を確認する役割を演じさせようとしたのではないでしょうか。
ですから、次のような演出をしています。
「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである。」と。
この女性の不治(ふじ)の病(やまい)は、当時のユダヤ社会では、レビ記に記されているように、宗教的に「汚れ」とされ、人前に出ることは、厳しく禁じられていたのではないでしょうか。
だから、「後ろからイエスの服に触れた。」のです。ここで言われている「癒していただける」ですが、ギリシャ語では「救われる」とも訳せる言葉です。とにかく、この女性が、イエスによって長年の苦しみから見事に救われるという確信をいだいていたと言えましょう。
ですから、「すぐに出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」のであります。
ただ、イエスとしてみれば、「後ろから、服に触れられた」だけなのに、「自分の中から力が出ていったことに気づかれた」というのです。
ところで、マルコがこの女性の癒しの体験を、挿入したのは、イエスの癒しの奇跡においてまさに人格的出会いを大切になさっておられたことを強調するためではなかったでしょうか。
ですから、イエスは、「群集の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』」と、確認なさいます。群衆に取り囲まれ、しかも後ろから服に触れたのはだれかと確かめるのはまさに至難(しなん)の業です。
ところが、「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」のであります。そこで、イエスのその真剣さに気づいたその女性は、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」のであります。
この場面で、イエスは宣言なさいます。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と。
ここで、突然、舞台は、会堂長の娘の方へ展開して行きます。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と、会堂長の家の人々が報告します。そこで、イエスは会堂長に命じられます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。
そして、さらにイエスは、会堂長の家の中で泣きわめいて騒いている人々に、宣言なさいます。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」
それから、イエスは、「子どもの手を取って、『タリタ、クム』と言われた。・・・少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。」と。
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