年間第12主日・B年(2021.6.20)

「まだ、信じないのか」

わたしは裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う(ヨブ1.21参照)

 まず、初めに今日の第一朗読ですが、恐らく紀元前3世紀から4世紀にかけて編集された智恵文学の代表作ヨブ記の38章からの抜粋であります。

 この書物は、人生における苦しみとその報いについての問題に取りくんだ知恵文学の代表作と言えましょう。

 ですから、その冒頭の箇所で、主人公のヨブの見事な信仰告白が、次のような四回にわたる試練つまり、「牛が畑を耕し、その傍らで雌(め)ロバが草を食(は)んでおりますと、シェバ人が襲い掛かってこれを奪い、若者たちを剣で撃ち殺しました。」(同上1.14b-15)その直後、今度は、なんと「神の火が天から降り、羊と若者たちを焼き尽くしました。」(同上1.16b)と言うのであります。

  そして、さらに、「カルデア人が三隊に分かれて、ラクダを襲い、これを奪い、若者たちを剣(つるぎ)で打ち殺しました。」(同上1.17b)と。

  そして最後に、「あなたのご子息、ご息女がたはご長男の家で食事をされ、葡萄酒を召し上がっておられました。その時、大風が荒れ野の方から吹いて来て、家の四隅を打ち、それが若者たちの上に倒れ、皆さまは亡くなられました。」(同上1.18b-19)と言う報告であります。

  そこで、「ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、言った。『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でそこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。』このようなときでも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。」(同上1.20-22)と。

  そして、今日の箇所では、試練の最中(さなか)、ヨブは、次のような神の声を嵐の中で聞きます。

「海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れでた。・・・しかし、わたしはそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け『ここまでは来てもよいが超えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」と。主なる神の天地の創造のみ業と被造界全体に及ぶ支配を強調しています。

 私たちも、ヨブのように、耐えきれないような試練を通して、まさに神の摂理を信じ、神に対する全面的な信頼を持ち続けることができるでしょうか。

 

キリストと結ばれる人は新しく創造される(IIコリント5.17参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、派閥争いで分裂の危機に立たされていたコリントの教会へ書き送った使徒パウロの第二の手紙の5章からの抜粋であります。

 そこで、使徒パウロは、偽者(にせもの)の使徒たちの伝える偽(いつわ)りの福音に惑わされないように、まさに信仰の原点に立ち返るように次のように勧告しています。

「一人の方(かた)がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。・・・その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。・・・だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」と。

 ですから、使徒パウロは、エフェソの教会にも、古い生き方を捨てて、新しい生き方を身に着けるようにと、次のように書き送っています。

「そこで、わたしは、主に結ばれた者として次のように厳しく命じます。あなたがたはもはや、異邦人が空しい考え方で歩んでいるように歩んではなりません。彼らの知性は闇に閉ざされ、内なる無知とかたくなな心のために、神の命とは無縁なものとなっているのです。・・・しかし、あなたがたはそのようにキリストに学んだのではありません。あなたがたは、真理はイエスの内にある、とキリストについて聞き、キリストにおいて教えられたはずです。ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲にまどわされた堕落している人を脱ぎ捨て、精神も霊も新しくされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい。」(エフェソ4.17-24参照)と。

 

なぜ、怖がるのか、まだ、信仰がないのか(マルコ4.40参照)

  最後に今日に福音ですが、イエスがガリラヤ湖畔で群衆に神の国についていつものように、たとえをもちいて語った後(あと)、弟子たちと異邦人の土地へと向かうために船を漕(こ)ぎだしたところから始まります。

 ところが、湖の沖に向けて船を漕ぎだしたときです、なんと激しい突風に襲われたのであります。

 福音記者マルコは、奇跡物語の形式によって、まず突然の激しい突風によって、「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」と、問題の所在を明らかにします。そこで、恐れおののいている弟子たちとは、きわめて対照的な「しかし、イエスは艫(とも)のほうで枕をして眠っておられた。」と、念を押しています。

 そこで、問題を解決するために、まず、「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか』」と、信仰薄い弟子たちの姿をさらけ出します。そこで、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。」と、まさになぜ奇跡が起こったのかその根拠を明らかにします。

 さらに、弟子たちの驚きの反応を「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と、確認します。ここで、通常の奇跡の様式を拡張するイエスのお叱りの言葉「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」を、挿入します。

 マルコは、すでにその福音書の冒頭で、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(同上1.1参照)と明記していますが、今日の段落では、弟子たちの恐怖におびえている最中のイエスに対する信頼の欠如を強調していると言えましょう。つまり、「なぜ、怖がるのか。まだ神を信頼しないのか。神の力強い支配は今、この私において実現するのだ」と、イエスは、強調されたのではないでしょうか。

   コロナ禍が、地球規模で蔓延している今日、私たちは、果たして具体的にイエスに対するゆるぎない信頼を抱き続けているのか、確認すべきではないでしょうか。とにかく、ようやく再開された主日のミサを出発点に、毎日真剣に祈ること、日々、みことばから新たな勇気と力をいただくこと、また、各家庭で、家族が、信者でない方をも含めて、共に祈り、みことばを分かち合い、まず、家庭で特に、子どもたち、若者たちと共に信仰をしっかり育てる機会を作ることではないでしょうか。

 この深刻なコロナ下において、子どもたちが、精神的に追い詰められて不登校になったり、ひきこもったり、また、最悪の場合、自死という手段を選んでしまうという事態もあるようです。

 本日のミサで、新たに霊的な力をいただいたなら、派遣されるそれぞれの家庭、学校、そして職場において愛の実践に励むことが出来るように共に祈りましょう。

 

 

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