年間第11主日・B年(2021.6.13)

「神の国の完成を目指して」

レバノンの杉のように(エゼキエル17.22参照)

   早速、今日の第一朗読を、振り返って見ましょう。

 実は、南のユダ王国の都エルサレムが、当時のオリエント世界で台頭した新バビロニア帝国によって、紀元前587年に徹底的に破壊され、その後、王を初め主だった人々は、首都バビロンになんと三回にわたって強制移住させられました。

 まさに、イスラエルにとって最大の試練の捕囚時代の始まりに他なりません。

 ちなみに、この捕囚民の只中で活躍したのが、今日の第一朗読の預言を伝えている預言者エゼキエルに他なりません。彼は、捕囚民に希望と慰めのメッセージを、次のように預言しました。

「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノンの杉の梢(こずえ)を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。」と。

 ここで言われている「柔らかい若枝」は、ダビデ家の未来のメシアを示しています。そして、「高くそびえる山」は、他でもなくエルサレムのことです。

 とにかく、近き将来に、捕囚民の子孫たちは必ずエルサレムの都(みやこ)に帰ることが出来ると言う希望の預言であります。

 しかも、このことを成し遂げるのは、バビロンの王ではなく、主なる神ご自身に他なりません。

 

目に見えるものによらず信仰によって歩んでいる(二コリント5.7参照)

   次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがコリントの教会へ送った第二の手紙5章からの抜粋であります。

 実は、このコリントの教会ですが、使徒パウロ自身が創立した教会ですが、彼が去ってから、なんと教会内に派閥争いが起こり、分裂の危機にさらされました。パウロ自身が、コリントに戻ることが出来なかったので、手紙によって解決のための指導を試みたと言えましょう。

 そこで、パウロは、その手紙の4章16節から、5章の10節において「信仰に生きる」ことについて書き送っています。

 まず、4章16節で、次のように励ましています。

「私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽(く)ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(同上4.16-18参照)と。

 さらに続けます。「私たちの地上の住まいである幕屋(まくや)は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻(うめ)いています。・・・この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命(いのち)に呑み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。」(同上5.1-4参照)と。そして、今日の箇所へと続きます。

 まさにイエスによって与えられた永遠のいのち(ヨハネ3.15参照)を、過ぎ行くこの世にあって全うして行くことこそが、キリスト者の信仰の生き方ではないでしょうか。

 

神の国の完成を目指して(マルコ4.30-32参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者マルコが編集した福音書の4章からの抜粋であります。

 そこで、マルコは神の国の完成に向けての力強い成長をからし種のイメージで次のように強調しています。

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」と。

 実は、マタイの平行箇所では、神の国(マタイは天の国)を、同じようにたとえで次のように説明しています。

「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。

 また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ12.44-46参照)と。実は、最初に編集されたと考えられるマルコによる福音書で、神の国というキーワードが次のような文脈で語られています。

 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣(の)べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1.14-15参照)と。

 まさに、神の救いの歴史の絶好のチャンスが到来し、「神の国」つまり神の愛と慈しみの支配は今ここに始まったので、福音である神の子イエスキリストに自分を委ねて生きる生き方に全面的に切り替えよ、ということではないでしょうか。ですから、神の国のものの見方、考え方、そして価値観に変えて行く生き方こそが信仰の生き方と言えましょう。

 それは、使徒パウロによれば、復活の命をこの世において生き始めるという新しい生き方にほかなりません。彼は、その生き方を、次のように分かち合ってくれます。

「しかし、わたしにとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失(そんしつ)と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑(くず)と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・・

 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストによって捕らえられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3.7-14参照)と。 

 今日もまた派遣されるそれぞれの家庭、学校、そして職場において神の国の完成を目指して、福音を伝えて行くことが出来るよう共に祈りましょう。

 


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