聖霊降臨の主日・B年(2021.5.23)

「一同は聖霊に満たされて ほかの国々の言葉で話し出した」

わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている(使徒言行録2.11参照)

 復活の主日から、今日までの50日間を、「大いなる主日」として祝い続けてきました。この復活節の50日間は本日の聖霊降臨の主日をもって終了します。

 それでは、いつものように聖書を手掛かりに、今日の祭日の意義を、ご一緒に確認してみましょう。

 まず、今日の第一朗読ですが、福音記者ルカが、その福音書の続編として編集した使徒言行録の2章からの抜粋であります。

 そこで、ルカは、ユダヤの暦に従って過越祭からちょうど50日目に当たる五旬祭(ごじゅんさい)に聖母マリアを中心にエルサレムに集まっていた弟子たちの上に突然聖霊が降ったことを、次のように報告しています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」と、まず音によって出来事を描いてます。

 ちなみに、ユダヤ教の三大祭りの一つ五旬祭は、旧約時代には「初穂の日」(出エジプト記23.16参照)とも呼ばれ、「小麦の収穫の初穂」(出エジプト記34.22a参照)を神に献げる日でした。これがユダヤ教の時代になって過越祭に付随する収穫祭的性格を帯び、その後(のち)シナイ山でのモーセの律法授与を記念する大切な祝祭日となりました。

 ここで、ルカは「一同が一つになって集まっていると」と、まさに弟子たちの理想的団結を印象づけようとしています。

 さらに、「激しい風が吹いてくるような音が」と、まさに不思議な出来事を、音で描いています。

 そして、今度は視覚に次のように訴えます。

 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と。

 ちなみにここで言われている「舌」ですが、ギリシャ語では同時に「言葉」をも意味します。

 しかも、弟子たちの共同体の「一人一人の上にとどまった。」ことを強調しています。

 そして、「一同は聖霊に満たされ、”霊“が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した。」ことを、説明しています。

 まず、ここで言われている「聖霊に満たされて」と、ルカが好んで使う言い回しですが、弟子たち一同の、まさに聖霊の力強い体験を強調しています。

 ですから、同じように最初の殉教者ステファノの壮絶な殉教の場面でも、次のように描写しています。

「聖霊に満たされて天をじっと見つめていたステファノは、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。」(同上7.55参照)と。

 そして、次のような聖霊の奇跡的な働きを、弟子たちの語るのを聞いた人々の反応として報告しています。

「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」と。

 ですから、人間の傲慢の罪のため、「直ちにかれらの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11.7参照)というバベルの塔のドラマとは対照的な奇跡が起こったのです。

 そして、なによりもこのエルサレムでの五旬祭の出来事を体験した弟子たちによって教会が誕生したことを確認していると言えましょう。

 つまり、教会こそ、常に聖霊に満たされながら世の終わりまで、そして地の果てに至るまで、福音をそれぞれの国の言葉で語り続ける使命を生きる共同体にならなければなりません。

 

霊の導きに従ってまた先進しましょう(ガラテヤ5.25参照)

  次に、今日の第二朗読で、使徒パウロは、わたしたちはいつも霊の導きに従って歩むことによってこそ、福音宣教の使命を全うできることを、つぎのように強調しています。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。・・・わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた、前進しましょう。」と。

 コロナ禍のためわたしたちは、教会に集まることを制限されていますが、それぞれに派遣されている家庭、学校そして職場、また地域社会において、聖霊に満たされながら福音を告げ知らせるという使命を、忠実に遂行し続けることによって、教会を共に力強く育てることができるのではないでしょうか。

 ですから、使徒パウロは、次のようにわたしたちを励ましてくれます。

「御言葉を宣(の)べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれもが健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。・・・わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」(テモテ二4.2-17a参照)と。

 

真理の霊が来ると真理をことごとく悟らせてくださる(ヨハネ16.13参照)

  最後に今日の福音ですが、ヨハネ福音記者だけが伝える、最後の晩餐の席上、イエスが弟子たちに切々と語られた告別説教において聖霊についての次のような説明の箇所であります。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証をするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と。

 ここで言われている「弁護者」ですが、もともとの意味は、「ある人のわきに呼ばれた者、介添え人」です。ですから、この弁護者こそ、弟子たちから離れて御父のもとに戻るイエスが御父に願うことによって(同上14.16-17参照)、イエスに代わって派遣され(同上16.7参照)、弟子たちのもとに常にとどまり、すべてのことを教え、イエスの言葉を思い起こさせ(同上14.26参照)、イエスについて証ししてくれるのです。(同上15.26参照)

 それは、「真理の霊」であり(同上14.17; 16.13参照)、「聖霊」にほかなりません。(同上14.26参照)

 ですから、この方が弟子たちに語りかけるときは、自分から語るのではなく、イエスから聞いたことを語っているので、まさにイエスの栄光を現します。(同上16.13-14参照)

 わたしたちも日々、聖霊によって派遣されるそれぞれの場で、まさに聖霊に満たされて福音を証しできるよう共に祈りましょう。

 

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