主の昇天・B年(2021.5.16)

「なぜ天を見上げて立っているのか」

地の果てに至るまでわたしの証人となる(使徒1.8参照)

  最初に、主の昇天の祭日の由来を、振り返って見ましょう。

 ちなみに、初期キリスト教においては、「キリスト昇天」の特別な祝日は存在してなく、むしろキリストの高挙の記念が、復活日と密接に結びついていたと言えましょう。しかも、エルサレムのオリーブ山にあるキリスト昇天教会は、イエスが天に昇られた場所に建てられたという言い伝えがあります。

 とにかく、最初エルサレムでは、他の場所と同様、復活日後50日目に、聖霊降臨とキリストの昇天とを記念していました。ところが、4世紀になって初めて、多くの場所で、ルカの年表に従って復活日後40日目に、キリストの昇天を祝うようになりました。

 それでは、今日の聖書朗読箇所を手掛かりに、主の昇天がわたしたちにどんな使命をもたらしたのかを確かめてみましょう。

 まず、今日の第一朗読ですが、福音記者ルカが、その福音書の続編として編集した使徒言行録の冒頭の箇所であります。

 そこで、40日にわたって弟子たちに現れたイエスが、食事の席上、次のように命じられました。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。

 この宣言で明らかなように、キリスト者の使命は、聖霊を注がれて、まさにイエスの復活の証人となることにほかなりません。

 ですから、裏切り者のユダの代わりに十二使徒の加わったマティアが選ばれるときにも、次のような条件を満たす必要がありました。

「それ故、主イエスがいつもわたしたちと共に生活されていた間、すなわち、ヨハネの洗礼から始まって、わたしたちを離れて天に上げられる日に至るまで、わたしたちと行動を共にした人々のなかから、誰か一人がわたしたちに加わって、主の復活の証人とならなければなりません。」(同上1.21-22参照)と。

 しかも、この「証人となる」ことは、命を懸けて自分の生き方を通してイエスを証しすることなので、まさに殉教こそが、最も理想的な証しとなると言えましょう。

 ですから、最初の殉教者ステファノが、その素晴らしい模範を次のように示してくれました。

 「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らはあの正しい方の来臨を前もって告げた人たちを殺しましたが、今や、あなた方は、その方を裏切る者、殺す者となったのです。・・・これを聞いた人々は心の中で激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。しかし聖霊に満たされて天をじっと見つめていたステファノは、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。そこで、彼は言った、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』

人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノを目がけて一斉に襲いかかり、彼を町の外に引き出して、石を投げつけた。」(同上7.52-58a参照)

 

奉仕の業に適した者とされキリストの体を造り上げてゆき(エフェソ4.12参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが最初に投獄されたローマから61年~63年の間に、エフェソの教会へ書き送ったと考えられる手紙4章からの抜粋であります。

 そこでは、キリストの体である教会のすべてのメンバ―が、使徒職のために奉仕することによって、教会が成長していくことを、次のように強調しています。

「キリストは、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされ、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(同上4.11-16参照)と。

 コロナ禍のため、教会に集まることが制限されている今日(こんにち)、それぞれ派遣されている家庭、学校、職場そして地域社会において自分の殻の閉じこもってしまうのではなく、日々の人と人との関わりにおいてイエスの復活を証しすることによってキリストの体である教会は確実に成長し続けることができるのです。つまり、派遣されているそれぞれの場で、愛の実践に励むことによって、まさに教会は出向いて行く開かれた共同体として成長し続けることができるのでないでしょうか。

 今の試練の最中(さなか)、各々が、決して孤立してしまわないように、まず、身近なところでの関わりを大切にすることではないでしょうか。

 例えば、子どもたちの信仰教育にしても、それぞれの家庭で実施することが肝心です。実は、この家庭におけるこどもたちのみ言葉教育は、すでにモーセに時代から次のように命じられていたのです。

 「今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝る時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。」(申命記6.6-7参照)と。

 

弟子たちは出かけて行って至るところで宣教した(マルコ16.20参照)

  最後に今日の福音ですが、キリストの昇天によって弟子たちの宣教が開始されたことを次のように報告しています。

 「主イエスは、弟子たちに話した後(のち)、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方(いっぽう)、弟子たちは出かけて行って、いたるところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」と。

 ですから、教皇フランシスコは、近年、教会が本来の使命である福音宣教に励むように強調しておられます。

 「洗礼を受け、神の民のすべての成員は、宣教する弟子となりました。・・・洗礼を受けた一人ひとりが福音宣教者なのです。・・・福音宣教にかかわることをためらわないでください。・・・イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・わたしたちは皆、福音宣教者として成長するように呼ばれています。」(『福音の喜び』120-121項参照)と。

 

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