復活節第6主日・B年(2021.5.9)

「出かけて行って実を結ぶように任命した」

 み言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った(使徒言行録10.44参照)

    今日の第一朗読の使徒言行録ですが、福音記者ルカは、まず、マルコ福音書を下敷きにして、独自の資料を加えた福音書を、西暦70年から80年にかけて主(おも)に異邦人キリスト者に向けて編集したと考えられます。

 そして、その福音書の続編として、同じ時期に初代教会の歴史を使徒言行録として編集しました。

 今日の第一朗読は、この使徒言行録の10章からの抜粋であります。

 それは、使徒ペトロが異邦人コルネリウスの家に集まっていた人々に福音を宣教した、次のような場面であります。

「ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れ正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』ペトロが話し続けていると、み言葉を聞いている一同の上に聖霊が降(くだ)った。・・・そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。」と。

 ちなみに、わたしたちに聖霊が注がれるのは、洗礼式において、次のような祈りと聖香油の塗油(とゆ)によることを、典礼式文で確認してみましょう。

「わたしたちの主イエス・キリストの父、全能の神は、あなたを罪から解放し、水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいました。

 神の民に加えられたあなたは、神ご自身から救いの香油を注がれて、大祭司、預言者、王であるキリストに結ばれ、その使命に生きるものとなります。 アーメン。」(『カトリック儀式書 成人のキリスト教入信式』129項参照)

 しかも、わたしたちは聖霊によってイエスの証人として全世界に派遣されていることは、イエスの次のような約束に由来します。

「聖霊があなた方の上に降るとき、あなたがたは力を受け、エルサレムと全ユダヤとサマリア、また地の果てに至るまで、わたしの証人となるであろう」(同上1.8参照)

 実は、この証人となるということですが、その最も理想的な実践は、殉教にほかなりません。

 たとえば、最初の殉教者ステファノの殉教がそれを、次のように感動的に示しているのではないでしょか。

「聖霊に満たされて天をじっと見つめていたステファノは、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。そこで、彼は言った、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』

人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノを目掛けて一斉に襲い掛かり、彼を町の外に引きずり出して、石を投げつけた。」(同上7.55-58参照)と。

 この冒頭で言われている「聖霊に満たされて」ですが、ルカが好んで使う言い回しで、まさに聖霊の働きをめいっぱい体験しているからこそ、命を懸けて信仰を証しし、また神のことばに全面的に従って行動できることを強調しているのではないでしょうか。

 ですから、聖母マリアの親類エリザベトも同じように「マリアの挨拶を聞くと、胎内の子が踊り、エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに叫んで言った、『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています。・・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』」(ルカ1.41-45参照)と。

 

神がわたしたちを愛して御子をお遣わしになりました(一ヨハネ4.10参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、一世紀末にヨハネ共同体が、編集したヨハネの手紙一の4章からの抜粋であります。

 編集者ヨハネは、まさに愛の本質について核心に触れることを、次のように強調しております。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛するものは皆、神から生まれ、神を知っているからです。・・・神は、独り子を世にお遣わしになりました。この方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」と。

 さらに続いて次のように強調しています。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(同上4.11-12参照)と。

 

出かけて行って実を結びその実が残るようにとあなたがたを任命した(ヨハネ15.16参照)

 最後に今日の福音ですが、ヨハネ福音記者が伝える最後の晩餐の席上、イエスが切々と語られた告別説教の第二部にある「ぶどうの木とその枝」についての箇所であります。ちなみに、この段落の前半では、ぶどうの木とその枝との密接なつながりを次のように強調しています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(同上15.5参照)と。

 さらにこの段落を弟子たちの派遣で次のように締めくくっておられます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが命令である。」(同上15.16-17参照)と。

 しかも、ヨハネ福音書の文脈では、この弟子たちの派遣は、主が復活させられた当日、次のように宣言されました。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(同上20.21-23参照)と。

 復活節をしめくくるに当たって、イエスの復活のできごとが、わたしたちに聖霊を注ぎ、福音を宣(の)べ伝えるために派遣する原動力であることを確認し、今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、聖霊に満たされて愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

「そしてイエスは、聖書に書いてあることを悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『つぎのように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる回心が、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」(ルカ24.45-49a参照)と。

 

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