復活節第5主日・B年(2021.5.2)

「わたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、豊かな実を結ぶ」

聖霊の慰めを受け基礎が固まって発展し(使徒言行録9.31参照)

   聖霊降臨によって誕生したエルサレムの教会に、復活のイエスから直接、異邦人の使徒になる召命を受けた使徒パウロが、仲間に加わり、教会は大きく成長したことを、福音記者ルカは、次のように報告しております。

「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、・・・聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」(同上9.31参照)と。

 まさに聖霊の力強い働きによって教会の基礎が固まったからこそ、成長できたというのであります。

 このことから、現に、今日(こんにち)のわたしたちの教会が、信者の数も減り、特に子ども、若者たちの世代に信仰がしっかりと伝達されていない現状の問題点が明らかになるのではないでしょうか。

 実は、使徒パウロは、教会共同体の成長について、きわめて本質的な勧告を次のように強調しています。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分(ぶん)に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げてゆくのです。」(エフェソ4.12-16参照)と。

 

神の掟を守る人は神の内にいつも留まる(一ヨハネ3.24参照)

   次に今日の第二朗読ですが、一世紀末、ヨハネ共同体が編集したと考えられる使徒ヨハネの手紙一、3章からの抜粋であります。

 ここでは、共同体の成長する土台は、愛の掟の実践であることを強調しています。

 つまり、行いをもって愛し合うことによって真理に属し、神の内にしっかりと留まる、つまりつながることができるというのであります。

 実は、最後の晩餐の席上、イエスは弟子たちに次のような新しい掟を与えられました。

「わたしは新しい掟をあなた方に与える。

   互いに愛し合いなさい。

  わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

  互いに愛し合うなら、

  それによって人は皆、

  あなた方がわたしの弟子であることを、

  認めるようになる。」(ヨハネ13.34-35参照)と。

 ちなみに、この愛の掟は、すでに旧約時代から与えられていたのですが、いわばイエスによって新たに更新されたと言えましょう。つまり、イエスは、ご自分の愛を模範にした新しい掟として改めてお与えになったのではないでしょうか。

 たとえば、レビ記で定められていた隣人愛の掟(レビ記19.18c参照)は、あくまでもイスラエルの民の同胞愛に限定されていたのです。それを、イエスは、次のように新しくなさいました。

「あなたがたも聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。あなたがたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5.43-44参照)と。

 ですから、この手紙では、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその内にとどまってくださいます。」と、強調しているのではないでしょうか。

 

わたしにつながっておりわたしもその人につながっていれば豊かな実を結ぶ(ヨハネ15.5参照)

 ちなみに、この「神もその内にとどまってくださる」という主張は、今日(きょう)の福音では「つながる」となっています。

 福音記者ヨハネは、イエスが最後の晩餐の席上、別れの説教を弟子たちに切々と語られたことを次のように伝えています。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。・・・わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と。

 ここでいわれている「つながる」ですが、文脈から「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。・・・父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(同上15.7-10参照)と、見事に発展しています。さらにイエスのこの説教は、つぎのような派遣で締めくくられています。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(同上15.16-17参照)と。

 ですから、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟は、共同体の内輪向きの掟ではない、出向いて行くというまさに外に開かれた掟にほかなりません。

 したがって、近年、教皇フランシスコは、しきりに出向いて行く教会になるように、次のように励ましておられます。

「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力が常に現れています。アブラハムは新しい土地へと旅立つようにと言う呼びかけを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。・・・わたしたち皆が、その呼びかけに答えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20-21参照)と。

 

 

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