復活節第4主日・B年(2021.4.25)

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

主は羊飼い(詩編23.1参照)

   ちなみに、初代教会のキリスト者の心をとらえたのは、まさに良い羊飼いの姿をしたイエスでした。キリスト教徒を迫害していたローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝が313年にキリスト教公認の勅令を出す前までは、キリスト教のシンボルは、十字架ではなく、イエスの良い羊飼い像でした。ですから、ローマのカタコンベ(地下墓地)には、何十という良い羊飼い像が発見され、またそのフレスコの壁画(へきが)が数多く残されています。そのイエスのお姿は、命の水の小筒を肩からさげ、探し当てた迷える小羊を肩に抱き、後ろに数匹の羊を従えています。お顔には髭がなく、若々しい青年の姿をしています。恐らく当時の信者たちはこの良い羊飼いのイエスに親近感をいだいていたのではないでしょうか。

 実は、聖書にはすでに旧約時代から神が羊飼いとして登場しています。その代表的な箇所は、詩編23編ではないでしょうか。

 まず、最初に次のように歌います。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節)

 この冒頭句は、まさに羊が自分を、命を懸けて導いてくれる羊飼いに向かっての全面的な信頼のこもった宣言と言えましょう。

 ちなみに、イザヤ書では、次のように羊飼いの務めを描いています。

 「主は羊飼いとして群れを養い、

  み腕をもって集め

  小羊をふところに抱き、

  その母を導いて行かれる。」(イザヤ40.11参照)と。

 つまり、主である神は、わたしを養い守り導いてくださる羊飼いなので、たとえどんなことが起ころうとも、わたしは神の愛の豊かさに満たされ、何ひとつ不足することがないという信仰告白にほかなりません。

 次に、「主はわたしを青草の原に休ませ、」(同上23.2a参照)と、神である羊飼いが優しい心で羊たちを導き、豊かな牧場(まきば)で養ってくださることに、信頼を込めて歌うのです。つまり、荒れ野の中でも必ず豊かな牧草地に導いてくださるという信頼です。

 続いて、「憩いの水のほとりに伴い、

     魂を生き返らせてくださる。」(同上23.2b-3a参照)と歌います。

 ここで、言われている「魂を生き返らせてくださる。」ですが、「わたしの魂を神に立ち帰らせる」とも訳すことが出来、主によって憩いの水のほとりに伴われることは、生き返ること、つまりいのちの蘇(よみがえ)りであり、まさに復活体験と言えましょう。

 

良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ10.11b参照)

 ですから、このような旧約聖書の背景のもとに「イエスこそ、羊のために命を捨てる良い羊飼いである。」という今日の主題を設定できるのではないでしょうか。

 実は、福音記者ヨハネは、その福音書の10章で、まず、「羊と羊飼いのたとえ」(同上10.1-5参照)をファリサイ派の人々に話され、次いで、ご自分が、「羊の門である」(同上10.7c参照)と宣言なさり、「わたしが来たのは、羊に命を得させ、しかも、豊かに得させるためである。」(同上10.10参照)と主張しています。そして、続いて今日の箇所に入ります。

 ちなみに、このヨハネ福音書においては、すでに3章で、洗礼者ヨハネが

「イエスが自分の方へ来られるのを見て、こう言った。『見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ。』」(同上1.29参照)と。

 とにかく、毎年、この復活節第4主日に、今日の箇所が朗読されるのですが、まさに使徒パウロが主張するように、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」(コリント一5.7c参照)

 ですから、イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、宣言なさるのではないでしょうか。

 ちなみに、ヨハネ福音記者は、三回にわたって「人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠のいのちを得るためである。」(同上3.14-15参照)そして「あなた方は人の子を上げたとき、はじめて、『わたしはある』を悟り、」(同上8.28参照)、さらに「わたしが地上から引き上げられるとき、すべての人をわたしのもとに引き寄せる。」(同上12.32参照)と厳かに宣言なさったことを強調しています。

 つまり、ヨハネ福音記者は、「上げられる」と言う独特な言い回しによってイエスが十字架に上げられるとき、まさに天に上げられるつまり復活させられるという二重の意味が込められているのです。

 続いて、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人(やといにん)は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」と、強調しています。

 さらに、「わたしは自分の羊を知っており、羊もまたわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と。ここで言われている「知る」ですが、親密な一致と交わりを表すヨハネ独特の言い回しで、イエスが最後の晩餐の後(あと)にも、次のように祈られたのです。

 「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すことができるように、あなたの子に栄光をお与えください。あなたは、すべての人を治める権能を、子にお与えになりました。子が、あなたから与えられたすべての人に、永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一真(まこと)の神であるあなたを知り、また、あなたがおつかわしになったイエス・キリストを知ることです。」(同上17.2-3参照)と。

 ですから、「知る」とは、「愛する」ことであると言い換えることができるのではないでしょうか。

 

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(同上15.13参照)

 実は、最後の晩餐の席上、イエスは別れの説教を切々と語ったのですが、イエスにぶどうの木と枝の関係のように愛によってつながることを強調なさいました。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。・・・父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛して来た。わたしの愛に留まりなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うことは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがあたしの命令である。    

 今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、愛の実践に励み、イエスの復活を証しできるように共に祈りましょう。

 

 

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