復活節第3主日・B年(2021.4.18)

「あなたがたはこれらのことの証人となる」

わたしたちは復活の証人です(使徒言行録3.15参照)

   早速、今日の第1朗読ですが、福音記者ルカが、その福音書に続く初代教会の歴史を編集した使徒言行録の3章からの抜粋であります。

 ちなみに、この言行録で、前半が使徒ペトロを中心としたイエスの復活の証人としての活躍と、後半は使徒パウロを中心としたイエスの復活を証(あか)しした初代教会の歴史と言えましょう。

 実は、この言行録の冒頭で、復活のイエスが、天に昇られる前に、弟子たちに次のような命令をなさったことが、報告されています。

「イエスは苦難を受けた後(のち)、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』・・・『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」と(使徒言行録1.3-8参照)

 ですから、キリスト者の使命は、まさに地の果てに至るまで出向いて行ってイエスの復活の証人になることにほかなりません。しかも、この証しはまさに命を懸けて実践すべきことは、教会の殉教の歴史を振り返ることによって確認できます。

 ちなみに、日本の教会の歴史は、キリシタン時代の殉教の歴史にそのルーツがあるといえます。ここで、キリシタンの殉教の一コマを紹介します。

「1619年10月6日、都(みやこ)中を引き回されたキリシタン52人は、鴨川の近く大仏の真正面に引き出された。そこにはすでに27本の十字架が立てられていた。男性26人、女性26人、其のうち十五歳以下の子どもが十一人を数えた。役人は、南のほうから一番目の十字架にヨハネ橋本太兵衛を縛りつけた。捕らわれた時から、太兵衛が皆の支えになっていたことを役人は知っていたからである。中ほどの十字架には太兵衛の身重の妻テクラと五人に子どもがいた。テクラは三歳のルイサをしっかりと抱いて立ち、両脇には十二歳のトマスと八歳のフランシスコが母と同じ縄で縛られて立っていた。隣の十字架には十三歳のカタリナと六歳のペトロが一緒に縄で縛られていた。

 鴨川に夕日が映るころ、とうとう火は放たれた。炎と煙の中、『母上、もう何も見えません。』と娘カタリナが叫んだ。『大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるからね。』そう励ますと、テクラはいとし子たちと共にイエス、マリアと叫び、崩れ落ちた。母は息絶えた後(のち)も、ルイサをしっかりと抱きしめたままだったと言う。」

 

神のことばを守るなら神の愛が実現している(ヨハネ一2.5a参照)

   次に今日の第二朗読ですが、ヨハネ共同体が編集したと考えられる使徒ヨハネの手紙一の2章からの抜粋であります。

 ちなみに、この手紙は、恐らくエフェソで小アジアにおけるキリスト者に読ませるために書かれたと考えられます。したがってその内容ですが、神の子イエスが人となられたみ言葉そのものであり、十字架上で流された血による人類の贖いに関する啓示の「光」を、宣(の)べ伝え、信仰の試金石は、神の子イエス・キリストの名を信じ、神が愛であるので、互いに愛し合えるかどうかにあることを、次のように強調しています。

「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神のことばを守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。」と。

 ですから、この同じ手紙の中で、次のように強調しています。

「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。・・・わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う(つぐな)いけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(同上4.8-12参照)と。

 

あなたがたはこれらのことの証人となる

   最後に今日の福音ですが、福音記者ルカが編集した福音書の24章からの抜粋であります。

 ルカは、今日の箇所で、キリスト者のイエスの復活の証し人としての使命を、次のように強調しています。

 「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べつたえられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。』」と。

 ここで言われている「彼らの心の目を開いて」ですが、実は、福音記者ルカは、クレオパともう一人の弟子が、復活のイエスにエマオへの道すがら、お会いしたにもかかわらず、「彼らの目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。」(同上24.16参照)と、報告しています。

 では、わたしたちも、復活のイエスにお会いできるために、イエスによって「心の目を開いて」いただけるのでしょうか。

 それは、この二人の弟子たちの体験を追体験することによって実現するのではないでしょうか。つまり、この二人の弟子に向かって、復活のイエスは「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」(同上24.25b-27参照)のです。この体験こそ、ミサの前半の「ことばの典礼」に他なりません。

 ですから、彼らがその後(あと)、泊まる家に無理やりイエスを引き留め、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目は開け、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。」(同上24.30-31参照)のです。この体験こそ、ミサの後半の「感謝の典礼」他なりません。

 つまり、わたしたちがミサを共にささげる度ごとに、復活のイエスにお会いできるのであります。そして、ミサの終わりに、この復活のイエスを、証するために、地の果てにいたるまで聖霊によって派遣されて行くのです。

 ですから、イエスは最後の晩餐の席上、弟子たちを次のように派遣なさいました。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うことはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15.16-17参照)と。

 

 

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