復活節第2主日・B年(神のいつくしみの主日:2021.4.11)

「父がわたしをお遣わしになったように わたしもあなたがたを遣わす」

 

主イエスの復活を証しし神の恵みが一同に豊かに注がれた(使徒言行録4.33参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、復活の恵みによって生き方を根本的に変えられたキリスト者の初期の信仰共同体の理想的姿を、福音記者ルカは、次のように描いています。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、神の恵みが一同に豊かに注がれていた。」と。

 ちなみに、使徒パウロは、初代教会の信仰告白を、次のように伝えています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあったとおり三日目に復活したこと、そして、ケファに現れ、次いで十二人に現れたことです。」(コリント一15.3b-5参照)と。この復活信仰によって、教会共同体はあふれるばかりの恵みを体験し、皆が持ち物を共有できるほどに一致と交わりを実感できたと言うのであります。

 つまり、復活のイエスにお会いできた弟子たちは、その素晴らしい体験を力強く証ししたので、信仰共同体が育てられたのであります。

 ちなみに、使徒パウロは、キリストの体である教会は、奉仕の共同体であり、愛によって互いに補い合うことによって成長できることを、次のように強調しています。「聖なる者たちは、奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する知識において一つのものとなり、成熟して人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げられてゆくのです。」(エフェソ4.12-16参照)と。

 

神から生まれた者は皆世に打ち勝つ(ヨハネ一5.4参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、ヨハネ共同体が編集したと考えられる使徒ヨハネの手紙の5章からの抜粋であります。

 この手紙ですが、共同体から離れて行った偽りのキリスト者を念頭においてまさにキリスト者の信仰の神髄に関して次のように強調しています。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。・・・神を愛するとは、神の掟を守ることです。」と。

 さらに、キリスト者は、神と教会にたいして敵対関係にある世に勝つことを、次のように主張しています。

 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」と。

 ですから、この同じ手紙の中で、特に若者たちに次のよう具体的な忠告をしています。

 「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、

 あなたがたが強く、

 神のことばがあなたがたの内にいつもあり、

 あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。

 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(同上2.14c-17参照)と。

 

父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす(ヨハネ20.21参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが、復活のイエスに弟子たちが二回もお会いできたという感動的な体験を伝えています。

 まず、最初の出会いですが、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と、日時を確認しています。

 実は、福音記者ヨハネは、最後の晩餐を「過越祭の前のことである。」(同上13.1参照)と、設定し、祭りの準備の日、神殿で祭司たちが羊を一斉に屠る同時刻に、イエスが十字架上で神の小羊としてご自分を屠られたことを強調しています。ですから、それから三日目は、週の初めに日になるのであります。

 そこで、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」と、弟子たちの様子を極めて具体的に描いています。まず、彼らは、イエスを十字架に掛けて処刑したユダヤ人たちを恐れていたというのであります。ですから、彼らの隠れ家のすべての戸に鍵をかけていたのです。これは、なによりも彼らの心をお互いに対しても閉ざし、それぞれが自分の殻に閉じ込っていた心理状態ではないでしょうか。

 ところが、突然、復活のイエスが彼らの真ん中に来られたのです。しかも、「あなた方に平和があるように」と宣言なさり、早速、「手と脇腹とをお見せになった。」のです。

 ここで言われた「あなた方に平和があるように」とは、平和の願いというよりは、むしろ平和の実現の宣言と言えましょう。しかも、その宣言を二回繰り返され、早速、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と、宣言なさいます。

 実は、最後の晩餐の後、イエスがお一人で御父に向かって祈られたのですが、その中で弟子たちのために、次のように願われました。

「わたしは彼らにみことばを伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。・・・真理によって彼らを聖なる者としてください。あなたのみ言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(同上17.14-18参照)と。ですから、教皇フランシスコは、復活の恵みに生かされている教会は、まさに出向いて行く教会にならなければと、次のように呼びかけておられます。

「弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは、宣教の喜びです。喜びに満ちて派遣されたところから戻ってきた七十二人の弟子たちは、それを体験しました。・・・この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれどもこの喜びには、脱出と自己犠牲、すなわち自分自身から出ていくという活力が伴います。イエスは、ある場所に種がまかれると、・・・それ以上にとどまることはせず、聖霊によって導かれるままに他の民のところに出向いて行かれました。」(『福音の喜び』21項参照)

 わたしたちのそれぞれの共同体が、主の復活の恵みに満たされて常に派遣を生きる共同体になれるよう共に祈りましょう。

 

 

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