復活の主日・B年(2021.4.4)

「もう一人の弟子も入って来て見て信じた」

 

神はイエスを三日目に復活させ(使徒言行録10.40参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、福音記者ルカは、第一巻つまり福音書で、イエスの誕生からエルサレムで天に上げられるまでの出来事を語り、第二巻つまり使徒言行録によって、イエスの昇天から始め、使徒パウロのローマ護送までの初代教会の歴史を描いています。

 しかも、この使徒言行録によって、ローマがキリスト教へと心を開き、キリスト教徒への迫害をやめるように訴えたと言えましょう。

 ちなみにこの使徒言行録の前半に登場する主人公は使徒の頭(かしら)ペトロですが、後半では使徒パウロに代わっています。とにかく、彼らはどちらも同じ使徒として働いたと報告しています。

 今日の朗読箇所は、ペトロが異邦人に向けて最初に語った説教ですが、36節から42節までが、ケリグマと呼ばれる福音の最初のメッセージにほかなりません。

 即ち「神はすべての者の主であるイエスキリストを通して、平和を宣(の)べ伝え、イスラエルの子らにみ言葉お送りになりました。・・・神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。・・・人々はこのイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこの方を三日目に復活させ、現わしてくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、神から前もって選ばれた証人であるわたしたちに対してです。」(使徒言行10.36-40参照)と。

 このようなケリグマに初代教会の宣教に対する自覚が見事に表されているのではないでしょうか。

 ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のようにキリスト者全員に課せられた福音宣教の使命を強調しておられます。

 「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へ旅立つようにという召命を受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす。』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・

 今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主が求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるよう呼ばれています。つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです。」(同上20項参照)と。

 

キリストと共に復活させられたのですから上にあるものを求めなさい(コロサイ3.1参照)

    次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、獄中で書いたコロサイの信徒への手紙3章からの抜粋であります。

 そこで、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」と、まさに洗礼の恵みを生涯かけて生きるキリスト者の生き方の基本を強調しているのではないでしょうか。

 まず「キリストと共に復活させられた」と、わたしたちはすでに復活の恵みに与っていることを前提にしていますが、それは、つぎのような主張に基づくのではないでしょうか。つまり、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。」(ローマ6.4参照)と。

 ですから、この地上的な事柄から過ぎ越し、そして、まさに「上にあるものを求める」ことができるというのであります。

 実は、同じような体験をヨハネはその手紙の中で、次のように強調しています。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出ているからです。世も世にある欲も,過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ一2.15-17参照)と。

 

もう一人の弟子も入って来て見て信じた(ヨハネ20.8参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが語る復活のイエスを、愛する一人の弟子が、最初に信じたと言う感動的な場面であります。

 まず、日時(にちじ)が設定され、最初に登場するマグダラのマリアのとった行動が次のように報告されます。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』と。

 まさに、空(から)の墓を目撃したマリアは、イエスの御遺体はてっきり誰かに盗まれたと早合点してしまいます。そこで言われた「わたしたちには分かりません。」とのマリアの悲痛な叫びは、御遺体が盗まれてしまったので、イエスがどなたであるのかも分からくなったという悲鳴ではなかったでしょうか。

 つまり、イエスは一体どこから来られ、どこに行かれたのかという極めて根本的な問題提起と言えましょう。

 次にマリアの報告で驚いて墓に駆け付けたのは、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子ですが、この弟子の方が、ペトロよりも早く墓に着いて、中を覗いただけ中には入りませんでした。

 続いて、墓に着いたペトロが、墓に中に入り、亜麻布と同じところに置いてない頭を包んでいた覆いを見たのです。

 「それから、先に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」というのであります。

 じつは、最初に空(から)の墓をマリアが見た、そして、もう一人の弟子も中を覗いたのと、最後にペトロも墓の中の様子をつぶさに見たのですが、いずれもこれら見るは、ギリシャ語の原文では「セオーレオー」で、普通に目で見る意味ですが、もう一人の弟子が「見て、信じた。」では、違うエイドンという動詞が使われています。つまり、彼が体験した「見る」は、事物の背後にある神の働きを洞察することができる働きと言えましょう。

 ですから、わたしたちもイエスの復活を信じるためには、この洞察する恵みを、体験する必要があるのではないでしょうか。この復活の恵みを豊かに味わうことが出来る「聖なる過越の三日間」によって、共同体ぐるみでこの豊かな恵みを体験できるよう共に祈りましょう。

   そして、今度は50日かけて復活節の恵みをいただくことができるように祈りましょう。     

 

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