受難の主日(枝の主日)B年(2021.3.28)

「マルコによる主イエス・キリストの受難」

 

ピラトの前での裁判―王であるイエス(マルコ15.1-20a参照)

 

A 尋問「お前がユダヤ人の王なのか」(同上15.1-5参照)

  最高法院の前での裁判からローマ人が登場するクライマックスの場面へと、出来事の進むペースが著しく早くなって行きます。とにかく、最高法院でのメンバ―全員が集まった集会において、イエスを「縛り」、「引いて行き」、ピラトに「渡す」のは、イエスの第一の敵対者つまりユダヤ教の指導者たちであると主張しています。

 ここで、ピラトつまりユダヤの第五代ローマ総督が登場します。

 最高法院は、イエスが政治的権力を主張したということで、ローマ人によって有罪とされることを求めています。けれども、総督は彼らの告発を受け入れるのを拒み、ただあざけって、「お前がユダヤ人の王なのか。」と、呼びます。

「ユダヤ人の王」という称号が、イエスに用いられているのは、ローマ人による裁判においてだけであり、明らかに政治的意味合いが込められています。

 ちなみに、「イスラエルの王」という称号は、より宗教的意味を持っていると言えましょう。

 それに対してローマ人たちは、政治的な暴動を恐れて、より世俗的な表現である「ユダヤ人の王」という称号を用いたと言えましょう。

 とにかく、ピラトによる裁判では、ユダヤ教の指導者たちは、さまざまな口実(こうじつ)でイエスを訴えます。

 ところが、イエスは、何もお答えになりません。

 

B  イエスかバラバか(同上15.6-15参照)

      さらに、バラバのエピソードによって、イエスが無実であるというピラトの確信と、イエスを破滅させよとする指導者たちの盲目的意図が、より一層明確になります。

 とにかく、囚人の釈放は、ユダヤ人の過越祭の解放のモチーフに適合しており、ユダヤに対するローマの支配者側の譲歩であったかもしれません。

 また、この時点まで、イエスが対決して来たのは、敵意を抱いているユダヤの指導者たち、イエスを捕えるために遣わされた武装した一団、そして裏切り者のユダでした。ところが、それまで中立的立場にいた群衆が、今や、敵対者たちの扇動(せんどう)によって、イエスに逆らう集団に変えられてしまいます。 

 そして、群衆はピラトのもとに押しかけ、祭司長たちに扇動されて、バラバの釈放を要求します。そこで、マルコは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。」と説明します。

 とにかく、ピラトの質問と群衆との応答は再び繰り返され、今度は、ドラマは恐ろしいクライマックスへと高まっていきます。

 つまり、ピラトは、「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」(同上15.12参照)と、イエスの運命を、群衆の手にゆだねてしまいます。

 ですから、群衆はここで、受難のドラマ全体が目指してきた言葉、つまり「十字架につけろ」と、叫ぶことになるのです。

 そこで、ピラトは、イエスの無罪を主張し抗議するのですが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けます。

 こうして、イエスを拒絶し、バラバを選ぶ群衆の決意が固まって初めて、ピラトの正式な決定がなされます。しかも、判決の間際(まぎわ)になっても、「ピラトは群衆を満足させようと思って」(同上15.15参照)と、ローマ総督の意図は最小限に抑えられています。

 今や、群衆はまさに、最高法院と同じように盲目的になり、イエスを「ユダヤ人の王」として受け入れるのを拒んだのです。

 

C  王への嘲笑(同上15.16-20参照)

     次に、裁判につながっている最後のエピソードは、イエスがまさにメシアであることを最も雄弁に語っていると言えましょう。

 それは、イエスが、総督官邸に連行され、ローマの部隊全員が集まって、イエスが王だと主張したとして嘲り笑う場面であります。

 

十字架の死(同上15.20b-41)

 

 A ゴルゴダ(同上15.20b-24)

    総督官邸からゴルゴダに向けての出発は、この受難のドラマのクライマックスに至る合図となっています。それは、最後に受ける嘲(あざけ)りと、そして十字架上での死へと導いて行きます。

 まず、刑場へ引かれて行くとき、キレネのシモンに、イエスの十字架を担がせます。とにかく、この場面は、イエスがむち打ちや拷問(ごうもん)によってひどく弱っておられたことを示しています。

 ちなみに、イエスはすでに弟子たちに向かって「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(同上8.34参照)と命じておられます。

 

B 最後の嘲笑(15.25-32)

    そして、ゴルゴダでイエスが敵対者たちの前で十字架に上げられると、数々の嘲りが浴びせられます。

 そして、死の時、午後三時(15.34神殿で過越の小羊が、祭司たちによって一斉に屠られる時刻)が刻刻(こくこく)と近づいて来るにつれて緊張は高まります。

 

C 死(15.33-41)

    続く死の場面こそ、このドラマの頂点であり、また、福音書全体を通してイエスがだれであるのかを、最終的に解決していると言えましょう。

「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『本当に、この人は神の子だった。』」と。このように、マルコは、イエスと言う人物とその使命に関して最も雄弁に語っています。

 まず、イエスの死を、他者のために生きる生き方のクライマックスとして描いています。つまり、十字架を背負う(同上8.34)とは、命をささげるイエスの使命全体に等しいものであります。しかも、イエスの死がまさに罪の贖(あがな)いの行為であることを主張しているのです。

 さらに、死から命への移行によって、イエスは、苦しみを受けるが必ず勝利する人の子として宣言されています。

 イエスの御受難と御死去によって与えられた救いの恵みに感謝し、その恵みを多くの人々を分かち合うことができるように共に祈りましょう。

 

 

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