四旬節第5主日・B年(2021.3.21)

「地上から上げられるとき すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」

 

新しい契約を結ぶ日が来る(エレミヤ31.31参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、紀元前7世紀から6世紀にかけてユダ王国で活躍した預言者エレミヤが、捕囚民に向かって捕囚からの解放と祖国エルサレムの復興を預言した希望と慰めのメッセージと言えましょう。

 そこで強調されるのは、新しい契約を結ぶ日の到来であります。

 「ユダと新しい契約を結ぶ日が来る、この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は、律法を彼らの胸の中に授け、かれらの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と。

 シナイ山でモーセが神との契約を結んだときは、十の掟が石の板に刻みこまれたのですが、この新しい契約は、なんと人の心に刻まれるので、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わず、身分の高い人にもまた貧しい人にもわけへだてなく神を知ることが出来るという新しさに他なりません。

 ちなみに聖書で使われる契約というキーワードですが、神が一方的にわたしたちと結ぶ心の絆と言えるのではないでしょうか。

 ですから,最後の晩餐の席上、ミサを制定なさったとき、イエスは、「杯を取り、感謝をささげて、彼らにお与えになった。彼らはみな、その杯から飲んだ。すると、イエスは仰せになった『これはわたしの血、多くの人のために流される契約の血である。』」(マルコ14.23-24参照)と。

 おそらくイエスは、その時、かつてシナイ山で契約が締結(ていけつ)されたことを、思い起こしておられたのでしょう。

 「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」(出エジプト24.6-8参照)と。

 ちなみに、エレミヤが捕囚時代の最中(さなか)に聞き取った神による決定的な介入つまり、捕囚民の解放の「来(きた)るべき日」は、紀元前539年にペルシャの王キュロスによって実現しました。

 

イエスはご自分に従順であるすべての人々に対して永遠の救いの源となられた(ヘブライ5.9参照)

 次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが書いたとされるヘブライ人への手紙の5章からの抜粋ですが、イエスが従順により永遠の救いの源となられたことを強調しています。

 なぜ、従順がテーマになっているのでしょうか。

 それは、人間の罪は神に対する不従順に他ならないからです。

 ちなみに創世記で、人祖の罪が初めて語られていますが、蛇の誘惑に負けて神のことばに従わなかったことに他なりません。(創世記3.6参照)

 ですから、不従順から神のことばに対する従順に回心することが、救いの第一歩と言えるのではないでしょうか。

 そのため、救い主イエスは、御父に対する全(まった)き従順の模範を示されることによってすべての人の救いの源となられたという救いの歴史のシナリオが成立したのです。

 ですから、初代教会の時代には、イエスの全き従順を賛美する次のような歌が歌われていました。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下にあるものはすべて、イエスの名において膝をかがめ、すべての舌は『主イエス・キリストは主である』と公(おおやけ)に宣(の)べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2.6-11参照)と。

 

わたしは地上から上げられるときすべての人を自分のもとへ引き寄せよう(ヨハネ12.32参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが伝えるイエスがエルサレムに入って公(おおやけ)な宣教活動を締めくくる場面であります。

 そこでは、まさに群衆のイエスに対する信仰と称賛が高まったことを、ファリサイ派の人々は、皮肉たっぷりに次のように呟いています。「見ろ、もう何をやっても無駄だ。あのとおり、世はこぞって彼について行ってしまった。」(同上12.19参照)と。

 けれども、ファリサイ派のイエスに対する抗議は、ギリシャ人たちがイエスに会いに来ることで最高潮に達します。

 ですから、ギリシャ人たちの登場によってイエスはご自分のイスラエルの家に対する使命の終わりが告げられたしるしと受け止めたのではないでしょうか。ですらから、イエスはまず次のようないとも荘厳な宣言をなさいます。

「人の子が栄光を受けるときが来た。アーメン、アーメンわたしは言う。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。まず、「イエスの時」の到来を宣言なさいます。

 それは「人の子が栄光を受ける時」に他なりません。しかも、ここで言われている「栄光」とは、神に属することばであり、救いの完成つまり終末の時に神のお姿が栄光に満ちていることを示しています。

 また、この一粒の麦のたとえは、小麦を栽培しているパレスチナ地方では、非常によく理解されたのではないでしょうか。確かに、一粒の麦は、そのままとって置かれたなら一粒のままですが、蒔かれて地に落ちると、その一粒の麦自体は死にますが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになります。

 このたとえは、まさにイエスが十字架上で殺されることによって、多くの人々が永遠のいのちに生かされるようになることを、見事に象徴していると言えましょう。ですから、「自分のいのちを愛する者は、それを失うが、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る。」と、強調なさいます。さらに、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」と。

 つまり、死に至るまでイエスに忠実に従うという弟子の生き方の原点を強調しています。そして、最後に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と、叫ばれます。ヨハネは、好んで「上げられる」と言う言い回しで、イエスが十字架上に上げられることによって、天に上げられるつまり復活させられることを宣言しています。(同上3.14-15参照)

 恵みの時四旬節を締めくくるにあたって、十字架の神秘に豊かに与ることができるように共に祈りましょう。

 

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