四旬節第4主日・B年(2021.3.14)

「独り子を信じる者が 永遠のいのちを得るために」

 

神なる主が共にいてくださるように(歴代誌36.23参照)

   今日(きょう)の「ことばの典礼」において、まさに神の救いの歴史の壮大なドラマの筋書きが示されていると言えましょう。

 では、早速、第一朗読によって、旧約時代における神の救いの御業(みわざ)の第二のクライマックスとも言えるバビロンからの解放を振り返って見ましょう。

 まず、歴代誌(れきだいし)の編集者は、王を初め主だった人たちの戦勝国バビロンへの強制移住を、「ユダの王セデキアは、主の目に悪とされることを行った。祭司長たちもすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌(い)むべき行いに倣(なら)って罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。」罪の結果であると受け止めています。

 そして、その「苦役の時は満ちた」(イザヤ40.2参照)ので、今度は、なんとペルシャの王キュロスによって、捕囚民は解放され、故国に戻り、エルサレムの神殿を再建することが出来るのであります。ですから、キュロス王は、次のように大胆に宣言します。

「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜(たま)わった。この主がユダのエルサレムにご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」と。

 

キリスト・イエスによって共に復活させ(エフェソ2.6参照)

   次に、今日の第二朗読ですが、エフェソの教会に宛てて書かれた手紙の2章からの抜粋であります。

 その主題は、わたしたちの救いは、イエスの復活に与(あずか)ることによって完成するという宣言です。そこで、その救いの恵みを、次のように強調しています。

「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって復活させ、共に天の王座につかせてくださいました。」と。

 実は、使徒パウロは、洗礼の恵みによって、わたしたちは復活の新しいいのちにすでに与っていることを、次のように宣言しています。

 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6.4-5参照)と。

 また、使徒パウロは、コロサイの教会への手紙の中で、次のように強調しています。

 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。・・・洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたでのす。」(コロサイ2.6-12参照)と。

 このように、わたしたちの救いの完成が、まさに復活に他ならないことを強調していますが、それはあくまでも目標であって実際に到達するまで、日々古い自分に死んで、つまり罪から解放されて、復活の新しいいのちへ過ぎ越して行くことがまさにキリスト者の生き方の原点にほかなりません。

 ですから使徒パウロは、この過越の生き方を次のように分かち合ってくれます。

 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3.10-14参照)と。

 

信じる者が皆人の子によって永遠のいのちを得るため(ヨハネ3.15参照)

   最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが伝えるイエスとニコデモとの感動的な対話を伝える3章からの抜粋であります。

 実は、その対話に最初の段階で、イエスは次のような大胆な宣言をなさいます。「アーメン、アーメンわたしは言う。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。・・・だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。あなたがたは新たに生まれねばならない。」(ヨハネ3.3-7参照)と。つまり、神の国に入るためには、「水と霊」つまり、洗礼によって「新たに生まれなければ」ならないことは、今日の第二朗読の説明と関連づけることができるのではないでしょうか。

 そして、この対話は、今日の朗読箇所に続きます。

「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と。

 ここで、かつてエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が、荒れ野において罪を犯し、神の怒りが蛇となって民を死に追い込められたとき、モーセに願って赦しを、旗竿(はたざお)の先に掲げた青銅(せいどう)の蛇を仰ぐことによって死を免れたという出来事(民数記21.4-9参照)を,思い起こさせ、イエスの十字架の上に上げられることを予告なさったのです。

 ここで、ヨハネの「上げられる」と言う言い回しには、十字架の上にあげられるという意味と、天に上げられるつまり復活させられるという二重の意味を含ませていると言えましょう。ちなみに、イエスは、最後にエルサレムに入城なさって祭りで神殿に詣でた群衆の只中で叫ばれました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(同上12.32参照)と。

 さらに、「永遠のいのちを得ることこそが救い」であることを強調なさいます。実は、ヨハネは、最後の晩餐の後、イエスが、御父に向かって「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠のいのちを与えることが出来るのです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(同上17.2-3参照)と、祈られたことを伝えています。

 つまり永遠のいのちとは、いのちの源であるみ言葉によって語られる御父を知るつまり親密に一致することに他なりません。

 この恵みの時四旬節に当たって、洗礼志願者と共に共同体ぐるみで、永遠のいのちを豊かに生きることができるように共に祈りましょう。

 

 

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