四旬節第3主日・B年(2021.3.7)

「イエスの言われる神殿とは   ご自分の体のことだった」

いかなる像も造ってはならない(出エジプト20.4a参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、出エジプト記が伝える主なる神が、シナイ山でモーセに十の掟(おきて)を授ける場面であります。

 それは、旧約聖書が語る神の救いの歴史の最初のクライマックスと言えるエジプトの奴隷に家から解放され、奇跡的に海を渡り、荒れ野に逃れ三か月の旅の後(あと)、ようやくシナイ山の麓(ふもと)にたどりついてからのことです。

 それから、モーセとアロンだけが、山にのぼり、神から十の掟を授かります。その第二の掟ですが、「あなたはいかなる像をも造ってはならない。」と、まさに偶像崇拝が禁じられました。それは、神のおられるところを制限し、神が啓示される場所を人間が勝手に決めてはいけないという掟です。実は、申命記では、「自分のためにいかなる形の像も造ってはならない」(申命記4.16参照)と、神を自分好みの神に制限してしまうことを禁じ、まさに神の絶対的超越性を強調していると言えましょう。

 さらに、十の掟に続く様々な契約を結ばれ、その後(あと)、モーセだけが山に残ります。

 ところが、「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民はアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』(出エジプト32.1参照)と、それから「民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳造(ちゅうぞう)を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。」(同上32.3-4参照)と。

 実は、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、今日(こんにち)、地球規模で蔓延(まんえん)している偶像崇拝を、次のように厳しく非難しておられます。

 「わたしたちは、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。現在の金融危機は、その根源に深刻な人間性の危機―人間性優位の否定―があることを忘れさせてしまいます。わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真(まこと)に人間的な目標の不在の、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代の金の雄牛の崇拝が、新しい、冷酷な姿を表しているのです。金融と経済に影響する世界的な危機は、そのシステムにおけるバランスの欠如、そしてなによりも人間らしい方向感覚の欠如、その深刻さを示しています。」(同上55項参照)

 

神の力、神の知恵であるキリスト(コリント一1.24参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、派閥(はばつ)争いで分裂の危機にさらされていたコリントの教会へ書き送った手紙の抜粋(ばっすい)であります。

 実は、今日の箇所の前の18節で、次のようなこの手紙全体と今日の箇所の主題になる説明があります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と。

 ここで言われている「十字架の言葉」とは、イエスの十字架の出来事を、まさに福音つまり良い知らせとして宣教することにほかなりません。

 ちなみに、十字架は、当時のローマ帝国内のむしろ多数を占める奴隷の反乱を力ずくで抑えこむために考案された、十字架上で長時間にわたって苦しみながら衰弱死していく見せしめの道具に他なりません。

 ですから、初代のユダヤ人キリスト教徒たちは、こうした屈辱的(くつじょくてき)なイエスの死を「わたしたちの罪のための死」という救いの業として受け止め、同時に復活に至る前段階として理解していました。

 ですから、十字架上で死に、復活させられたイエスに出会った使徒パウロは、自分の生き方だけではなく、賢さや知恵の基準をも根本的に変えられたのではないでしょうか。

 したがって、パウロは、復活のイエスとの出会いによって自分の価値観が全面的に切り変えられたことを、次のように分かち合ってくれます。

 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、・・・ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失(そんしつ)と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他(た)の一切(いっさい)を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらをちり芥(あくた)と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3.5-9a参照)と。

 

イエスの言われる神殿とはご自分の体のことだった(ヨハネ2.21参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネが伝えるイエスがエルサレムの神殿をいとも大胆に清められた場面であります。

 当時のエルサレムの神殿ですが、まさにユダヤ教の中心としての大切な役割を担っている神聖な建造物です。

 まず、イエスは神殿の境内(けいだい)で、神殿に詣でた巡礼者たちがいけにえとして献げる動物や鳩を売っている商人を御覧になり、早速、なんと「縄(なわ)で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内(けいだい)から追い出し、両替人の金(かね)をまき散らし、その台を倒し、鳩(はと)を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」と。

 まさに、イエスは神殿のそれ自体を非難なさったと言えましょう。

 つまり、それまでの神殿礼拝を全面的に廃止することにほかなりません。

 すなわち、神の臨在の神聖な建物における礼拝を、イエスご自身の体による礼拝に変えるということではないでしょうか。

 ですから、その後(あと)のユダヤ人との論争で、「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。』・・・イエスの言われた神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」と。

 ちなみに、今捧げているミサの核心に触れる第三奉献文で、次のように祈ります。「日の出るところから日の沈む所まで、

 あなたに清いささげものが供えられるために。

 あなたにささげるこの供えものを、

 聖霊によってとうといものにしてください。

 御子わたしたちの主イエス・キリストの

 御からだと+御血になりますように。」

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、「十字架につけられたキリスト」を、宣(の)べ伝えることができるように共に祈りましょう。

 

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