四旬節第2主日・B年(2021.2.28)

「これはわたしの愛する子 これに聞け」

 

自分の独り子ですら惜しまなかった(創世記22.16c参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、創世記が伝えるアブラハムの人生における最大の試練の感動的な体験記であります。

 このアブラハムこそ、信仰の父として救いの歴史において最初に登場する人物ですが、75歳の時、親族と生まれ故郷を離れ、神の示す新しい土地をめざして旅立つようにという召命を受けました。そこで神は、宣言なさいます。

「わたしはあなたを大いなる国民とし、祝福し

  あなたの名を大いなるものとする。

 あなたは祝福の基(もとい)となる。

 ・・・

 地上のすべての氏族は

   あなたによって祝福される。」(創世記12.2-3参照)と。

 さらに、神はアブラハムに約束なさいます。「わたしはあなたの子孫を地の塵(ちり)のように多くする。」(同上13.16参照)と。

 ところが、この約束はなかなか実現しませんでした。そして、アブラハムが、百歳になったときに、一粒種(ひとつぶだね)のイサクがやっと授かったのです。(創世記21.2-5参照)

 ですから、アブラハムは、イサクを溺愛したのではないでしょうか。

 そこで、今日の朗読箇所が告げる、アブラハムの人生における最大の試練つまり彼の信仰が本物かどうか試されなければなりませんでした。

 さすがアブラハムです。その試練を神の計らいの中で見事に乗り越えます。ですから、ヘブライ人への手紙では、なんとこの試練を復活体験に結び付けています(ヘブライ11.17-19参照)。

 それでは、今日の朗読箇所で割愛されている節をも加え、この感動的なドラマを、総括してみましょう。

 まず、3節で「次の朝早く」となっていますので、神の残酷な命令は、恐らく夜中に下されたのでしょうか。とにかく、何のためらいもなく、朝早くからもくもくと行動に移ったというアブラハムに注目すべきです。

 ところで、4節で、「三日目になって、アブラハムは目を上げると、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこに行って、礼拝をして、また戻って来る。』」(同上22.4-5参照)と。ここで、息子と一緒に戻って来るという神の摂理に対する信仰が示されていると読むことができます。

 ところで、何も知らないイサクは、けなげにも「焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」(同上7b参照)と、初めて、事の異常さに気づきます。

 それに対して、アブラハムは、「きっと神が備えてくださる」(同上8b参照)と、摂理に対する全面的な信頼を、息子に言い聞かせます。

 アブラハムの摂理信仰ですが、神は必ず全てを善(よ)きに計らってくださることを信じることにほかなりません。つまり、神の支配がまだ見えないのに、神の「備え」を「見る」ことではないでしょうか。

 ですから、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪(たきぎ)を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪(たきぎ)の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 そのとき、天から主のみ使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼び掛けた。彼が、『はい』と答えると、み使いは言った。

 『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』

 アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角(つの)をとられていた。・・・

 アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日(こんにち)でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」(同上22.9-24参照)

 

これはわたしの愛する子これに聞け(マルコ9.7bc参照)

   次に、今日の福音ですが、福音記者マルコが伝えるイエスの驚くべき御変容の報告です。

 ここで、まず、この出来事が語られるまでの文脈の確認ですが、すでに8章で、ペトロが弟子たちを代表してイエスに対する信仰告白、つまり「あなたはメシアです。」(マルコ8.29d参照)と宣言したと伝えています。

 ところが、「ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(同上8.20参照)と言うのです。

 それから、弟子たちだけに、イエスは、ご自分の受難、死、そして復活についての最初の予告をなさいます。「すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(同上8.32b-33参照)と。

 その六日後が、今日の場面になります。今度は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけに特別な体験をさせ養成するためでしょうか、御変容の出来事を目撃させるのです。

 「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」と。

 ここで言われている山ですが、聖書では、山こそ神との出会いの最もふさわしい場所として描かれ、特に高い山は天国に最も近い場所であり、神の神秘が示される場に他なりません。

 また、イエスの衣の輝きは、まさに神の臨在の光を表しています。

 そこで、旧約時代の代表者であるモーセとエリヤが、イエスと語り合っています。福音記者ルカによれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について」(ルカ9.31参照)であります。

 イエスの御受難の予告に躓(つまず)いてしまった弟子たちの代表者三人に、ご自分の復活の輝きに満たされているお姿を目撃させることで、勇気づけようとなさったのでしょうか。

 ですから、ペトロは思わず口をはさみます。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋(かりごや)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と。そこで、福音記者マルコは、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」と、弟子たちの心境を説明しています。

 「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」と。天の御父が弟子たちに直接命じられます。

 イエスを信頼して、徹底して聞き従って行きなさいという励ましのおことばではないでしょうか。

 わたしたちも、恵みの時四旬節に当たって、信仰の原点である日々イエスの言葉と行いにおいて徹底して聞き従うことができるよう共に祈りましょう。

 


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