年間第6主日・B年(2021.2.14)

「深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ」

生涯食べ物を得ようと苦しむ(創世記3.17d参照)

   初めに今日の「ことばの典礼」のテーマを、あえて設定するならば、「神の救いの歴史は、神の深い憐れみによって実現する」と総括できるのではないでしょうか。

 それでは、早速、第一朗読を振り返って見ましょう。

 今日の朗読箇所は、創世記が語る救いの「原初史(げんしょし)」つまり、救いの歴史が展開されるいわば舞台設定とも言える世界と人類が置かれている根本的な状況説明の一コマにほかなりません。ですから、アダムと女が犯した人類の罪に対する神の判決の場面となっています。

 最初に神は、蛇の誘惑に負けて神の掟に背いてしまった女に向かって、宣告なさいます。

 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

 お前は、苦しんで子を産む。

 お前は男を求め

 彼はお前を支配する。」と。

 この判決は、アダムのあばら骨で良き伴侶として造られた女に対する極めて具体的な体験にほかなりません。

 次に女から「善悪の知識の木からとった」(同上2.17参照)実を渡され、それを素直に、食べてしまったアダムにも労苦に満ちた生活に根差した判決が下されます。

 「『お前は女の声に従い

   取って食べるなと命じた木から食べた。

 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

 お前に対して

 土は茨(いばら)とあざみを生えいでさせる

 ・・・

 お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に帰るときまで。」と。

 すべてに恵まれていたエデンの園から追放されるので、現実に生きて行くためには労苦して糧を得なければならないだけでなく、エデンの庭であった自然環境までもが厳しい状態に変わってしまうのであります。

 ここで、確認すべきことですが、「善悪の知識の木から、取って食べると必ず死ぬ」(同上2.17参照)という命令に背いたにも関わらす、アダムとエバは、共々(ともども)生かされ続けたという神の憐れみに満ちた計らいであります。

 とにかく、この神の判決で明らかになったように、人間は苦しみと苦労を背負って生きなければならないという現実こそが、救いを体験できる本来的な条件となったことです。

 

御心ならばわたしを清くすることがおできになります(マルコ1.40参照)

   ですから、早速、今日の福音は、人生の耐えがたい苦しみから救われた感動的な奇跡物語を伝えています。

 福音記者マルコは、その場面を極めて具体的に次のように描いております。

 「そのとき、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」と。

 この無名の病人ですが、当時(とうじ)のユダヤ社会においても、差別され、共同体から隔離されてひっそりと隠れて暮らさなければならない「重い皮膚病」と言う十字架を背負っていた人物です。

 ところが、「イエスのところに来てひざまずいて願います。『御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります。』」と、イエスを、心から信じて願い出ます。

 実は、日本においてもかつてらい病といわれていたハンセン病の患者の方々(かたがた)は、1931年以来、ライ予防法によって隔離施設である療養所に強制入所させられました。そこでは、まさに基本的な人権をも無視され屈辱と差別される人生を強いられていました。

   わたくしが、一年間だけでしたが担当した県北の小さな教会には、この国立療養所に入所している信者さんたちの共同体が含まれています。

 ですから、毎週、主日の午後には、その療養所の小高い丘の上にある聖堂に出向き、ミサをささげ、そのミサに参加できない病室や個人の家におられる患者さんを訪問し、ご聖体を授けました。その中で、ご聖体をいただくことすらできない重病の60代の女性の方のためには短い祈りを枕元(まくらもと)でささげることしか出来ませんでした。

 ところが、或る日曜日に、その方が突然、「み言葉をください」と、か細い声で願われたのです。

 どのようにしたらみ言葉をその方に与えることができるのか、すぐにはその方法を見つけることができなかったのですが、説教をカセット・テープに録音し、それを容体のいいときに聞いてもらうことにしました。そしてその方は、そのテープを、また別の信者さんたちにも聞かせていました。

 その方は、やがて62歳で苦しみの人生を信仰によって全うなさいました。火葬が終わってそこに残されたのは、なんと真っ白に輝いていたお骨であります。何か、復活を先取りしたような美しさに感動させられました。

 とにかく、イエスの癒しの力は、信じてイエスに願うすべての人たちに、世界中の至る所で豊かに注がれているのではないでしょうか。

 ですから、今日の第二朗読で、使徒パウロは、次のように強調しています。

「わたしも、人々を救うために、自分の益(えき)ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣(なら)う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」と。

 では、イエスに倣うために、まずイエスから何を学ばなければならないのでしょうか。それは、今日の福音が、強調している「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れた」ことではないでしょうか。つまり、御父とイエスが示された「深く憐れむ心」にほかなりません。

 実は、福音書の中で、12回だけ御父とイエスに関して使われる言葉ですが、今日の福音では「イエスが深く憐れんで」と訳されているギリシャ語の言葉です。それは、からだの内臓を指し、はらわたにあたる言葉です。つまり、そこには最も深く激しい衝動が納められているのです。それは、熱情的愛と激しい憎しみの両方が生まれる中心部にほかなりません。ですから、イエスが感じられた憐れみは、悲しみや同情のように表面的で一時的な感情とは明らかに違っていたのではないでしょうか。

 したがって、特に苦しみの中で、イエスを求めている方々に、この憐れみの心でイエスを証しすることこそが、出向いて行く教会になれる第一歩ではないでしょうか。

 

 

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