年間第5主日・B年(2021.2.7)

「宣教するために出てきた」

忘れないでください わたしの命は風に過ぎないことを(ヨブ記7.7参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、旧約聖書にある知恵文学に属するヨブ記の7章からの抜粋であります。

 ちなみに、知恵文学ですが、捕囚時代(紀元前6世紀)の後に編み出された文学形式で、人間の苦しみとその報いなど人生の問題に取り組んだ代表作がヨブ記と言えましょう。

 このヨブ記は、一つのドラマに構成されており、まず、ヨブ自身が、サタンによって、足の裏から頭の頂(いただき)まで悪性の腫物(はれもの)で打たれ、土器(どき)のかけらで体を掻きむしり、灰の中に座るという最大の試練に遭遇します。

 ですから、まず、「ヨブは、口を開いて、自分の生まれた日を呪(のろ)って」(ヨブ記3.1参照)と嘆きます。

 続いて、三人の友人たちとの論争が展開されます。

 今日の箇所は、友人のエリファズが、ヨブがなぜ苦しまなければならないのかを説明し、神へ全面的に委ねることを勧める説教に対して、ヨブが答え、彼自身がさめざめと嘆く場面にほかなりません。

 「この地上に生きる人間は兵役(へいえき)にあるようなもの。・・・

       奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ

       傭兵(ようへい)のように報酬を待ち望む。・・・

       労苦の夜々(よよ)が定められた報酬。・・・

      忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを。

    わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」と。

 そして、最後の42章において、ヨブは主なる神に次のように告白します。

 「あなたは全能(ぜんのう)であり

 み旨の成就(じょうじゅ)を妨げることはできないことを悟りました。・・・

 わたしは悟っていないことを申し述べました。

 わたしの知らない驚くべきことを。・・・

 わたしは耳であなたのことを聞いていました。

 しかし今、わたしの目であなたを仰ぎ見ます。

 それゆえ、わたしは塵(ちり)と灰の上に伏し

 自分を退け、回心(かいしん)します。」(同上42.2-6参照)と。

 

福音のためならどんなことでもします(一コリント9.23参照)

 次に、第二朗読ですが、派閥争いによって分裂の危機にさらされているコリントの教会に宛てた使徒パウロの手紙一の9章からの抜粋であります。

 そこで、使徒パウロは、福音宣教のために自分の人生のすべてを献げていることを、次のように強調しています。

 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。

 そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。・・・

 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷(どれい)になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を獲得(かくとく)するためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人(なんにん)かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしも福音の恵みを共に受ける者となるためです。」と。

 このように、使徒パウロは、全身全霊を尽くして福音宣教に励むのは、まさに自分自身も、「福音の恵みを共に受ける者となるため」であると断言しています。

 ちなみに、教皇フランシスコは、近年、「教会が出向いて行く教会になる」ためにすべてのキリスト者が福音を告げ知らせる使命に呼ばれていることを、次のように強調しておられます。

「神のことばには、神を信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと旅立つようにという呼びかけを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』と言う神の呼びかけを聞いて、イスラエルの民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というお言葉は、教会のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。・・・つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20項参照)と。

 

わたしは宣教する、そのためにわたしは出て来た(マルコ1.38)

 最後に今日の福音ですが、福音記者マルコが伝えるイエスのカファルナウムでの一日の宣教活動の報告にほかなりません。

 ちなみに、今日の箇所で省かれているのが、会堂で教えられたイエスが、その場で、悪霊に取りつかれた男の悪霊に「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」であります。そして今日の場面に移ります。

 そこでまず、シモンの姑(しゅうとめ)が病気で寝ている個人の家を訪問します。たまたま、この姑が熱を出して寝ていたので、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」と、簡潔に報告しています。

 この段落の主人公である宣教者イエスは、実は、すでに次のように紹介されています。「ヨハネがとらえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣(の)べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい』と言われた。」(同上1.15参照)と。

 つまり、イエスこそ、救いの歴史における決定的な時の到来に、神の国の福音を告げ知らせ始められたという宣言であります。

 このイエスの中心的使命は、人々を回心させ、福音に全面的に身を委ねることを、呼びかけることにほかなりません。

 ですから、自宅で癒されたシモンの姑(しゅうとめ)も、すぐに「一同をもてなすこと」が出来たのです。つまり、彼女のもてなしは、もともとは、「食卓で給仕する」を意味していますが、その根底には「仕える」という意味があります。即ち、癒された姑は、福音宣教者のイエスに仕えたことになるのではないでしょうか。それこそ、福音に自分自身を全面的に委ねることなのです。

 ですから、イエスは、誰が一番偉いのかと、言い争っていた弟子たちに向かって、次のように強調なさいます。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人のための贖(あがな)いの代価(だいか)として、自分の命を与えるために来たのです。」

 わたしたちも、一人ひとりが、また共同体としても福音のために仕える者となれるよう、共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com