年間第4主日・B年/世界こども助け合いの日(2021.1.31)

「権威ある新しい教えだ」

預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける(申命記18.18参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、モーセの最後の説教と勧告の形式に編集された申命記の18章からの抜粋であります。恐らく、紀元前6世紀頃つまり捕囚時代に最終的な編集が祭司たちによって纏(まと)められたと考えられます。

  とにかく、イスラエルの民の主だった人たちが遠い異国の地に強制移住させられていた試練の最中(さなか)、神殿も無く、したがって信仰の土台である生贄(いけにえ)をささげることが出来なかった時代です。祭司たちの指導の下(もと)、安息日にはるか彼方のエルサレムに向かってただひたすら祈りをささげることが、捕囚民の信仰の支えだったと言えましょう。

 ですから、神のことばの仲介者である預言者の役割が非常に大切にされました。そこで、今日の箇所で、モーセは次のように強調しています。

 「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。・・・

 主はそのときわたしに言われた。『・・・わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。』」と。

 ちなみに、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、その使途的勧告『信徒の召命と使命』の中で、次のように信徒の預言職について強調しています。

 「『生活のあかしとことばの力とをもって父のみ国を告げ知らせた』キリストの預言者としての使命に与(あずか)ることによって、信徒には、信仰のうちに福音を受け入れ、勇気をもって悪を糾弾(きゅうだん)し、ことばと行いによって福音を告げ知らせる力と責任が与えられています。・・・そのうえ信徒は、家庭や社会生活の日々を福音の新しさと力で照らすように招かれ、また現代の種々の困難のただなかで、将来の栄光に対する希望を、『世俗生活の構造を通しても』、忍耐と勇気をもって表すよう招かれています。」(14項参照)と。

 

ひたすら主に仕える(一コリント7.36参照)

 次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、創立したコリントの教会が、派閥による分裂騒ぎを起こしたのを、解決するためにしたためた手紙一の7章からの抜粋であります。そこで、信者がそれぞれの召命(しょうめい)に従って信仰を全うすることを勧めています。

 「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣(つか)いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なるものとなろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫によろこばれるかと、世の事に心を遣います。」と。

 ちなみに、第二バチカン公会議の『教会憲章』において、信徒の身分を次のように説明しています。

 「洗礼によってキリストの体に合体され、神の民に組み込まれ、自分の在り方に従って、キリストの祭司職、預言職、王職に参与(さんよ)する者となり、教会と世界の中で、自分たちの分に応じて、キリストを信じる民全体の使命を果たすキリスト信者のことである。」(31項参照)と。

 さらに、修道者について、次のように説明しています。

「神にささげられた貞潔、清貧、従順の福音的勧告は、主のことばと模範に基づくものであり、・・・教会が自分の主から受け、また主の恵みによってたえず保持してきた神のたまものである。・・・

 誓願(せいがん)によって、また固有の様式で誓願に類似する他の聖なるきずなによって、キリスト信者は、これら三つの福音的勧告を守る義務を自分に課し、最愛の神に全面的に身をささげる。」(43.44項参照)と。

 また、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、その使徒的勧告『奉献生活』において、修道生活の本質である宣教の使命について次のように強調しています。

 「事実、あらゆる召命(しょうめい)とカリスマの源(みなもと)である聖霊の働きによって、奉献生活それ自体が一つの宣教です。・・・それゆえ、あらゆる会にとって、宣教は本質的なことと言えましょう。このことは、活動的な使徒的生活に献身している会ばかりでなく、観想(かんそう)生活を送る会にとっても言えることです。」(72項参照)と。

 

権威ある新しい教えだ(マルコ1.27参照)

 最後に今日の福音ですが、マルコによる福音書の1章からの抜粋です。実は、マルコ福音記者が、福音書という文学形式を編み出したのです。ですから、その福音書の冒頭で、次のように宣言しています。

 「神の子イエス・キリストの福音の始まり。」と。

 すなわち、福音とは、神の子イエス・キリストご自身であると言い換えることができるのではないでしょうか。そこで、マルコは、今日の箇所で、イエスが宣教活動を始められた最初の場面を次のように報告しています。

 「イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」と。

 まず、最初に「会堂に入って」と、現在形になっているのは、そもそも福音は過去の出来事に関することであり、同時にまた未来の預言をも含むからにほかなりません。

 つまり、福音は、過去、現在、そして未来をも一緒にして、イエス・キリストと神の国とを直接対決させ、聞き手の置かれている具体的な状況の中で語るからです。これこそ、マルコによる福音書が持っている特徴と言えましょう。さらに、福音が告げ知らされる場所も重要であります。

 つまり、最初に福音が述べ伝えられたのは、神を礼拝する神聖な建物つまり会堂であり、そこで、イエスの権威ある教えと、会堂に所属する律法学者たちの教えとが比較されるのです。即ち、イエスが、会堂と律法学者たちに対して立ちはだかるのであります。

 また、イエスの「教え」と、律法学者たちの「教え」との比較においては、それらの内容についてではなく、その教え方に強調点があるのではないでしょうか。つまり、律法学者たちは、彼らの広い学識をもって教えるのに対して、イエスは、権威をもって教えられる、つまりみ言葉を語る権利ある者として聖書を解釈することがお出来になるからです。

 なぜなら、福音記者ヨハネが、いみじくも賛美しているようにイエスこそが、「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった」(ヨハネ1.14参照)当の本人だからです。ですから、続いてイエスがその会堂内で、行われた奇跡つまり「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚(けが)れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」のです。そこで、人々は、論じ合います。「権威(けんい)ある新しい教えだ。」と。

 ここで言われる「新しい」ですが、時間的に最近のことではなく、まさに前例(ぜんれい)のないことあるいは以前には知られていないことを意味します。さらに、イエスの教え方に、力と権威がみなぎっていたことに人々は感動したのではないでしょうか。

 わたしたちも、日々、新たな感動をもって、イエスのおことばを聞くことができるように共に祈りましょう。

 

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